筑前国(福岡県)博多の政商、茶入。
1539年(天文八)生まれ。
通称徳太夫、名は茂勝。
剃髪して瑞翁宗叱、のち宗室と改名。
別に瑞雲庵・虚白軒の号があります。
同地の大神谷宗湛と同じく政商として早くから大友宗麟・織田信長・豊臣秀吉・黒田長政らと接触しました。
茶を堺(大阪府)の天王寺屋道叱に学び、天下三名物の一つ楢柴肩衝を所持しました。
本能寺の変の際信長所持三十八種の名物道具を拝見し、その脱出の時には弘法大師真跡千字文の一釉を持ち出したといいます。
1587年(天正一五)秀吉の九州平定後は宗湛と共に特権を免許され、また文禄・慶長の役(1592-8)には特命を受けて彼地を偵察し、秀吉の茶会にしばしば参加しています。
実子がなく徳右衛門信吉を養子としこれに有名な十七ヵ条の遺訓を与えています。
楢柴肩衝はのち秋月種実に召し上げられましたが、ほかに玉澗旛湘夜雨・老茄子茶入・灰被天目・尼崎台などの名物を所持していました。
1615年(元和元)8月24日没、七十七歳。
墓は博多崇福寺瑞雲庵にあります。
島井宗室 しまいそうしつ
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