京都の陶工。
もと清水坂の人で、1856年(安政三)に袋物師・丸窯師として彦根藩窯湖東焼に抱えられ名を徳兵衛と称しました。
京都にいた頃から急須づくりに技量があるようで、湖東焼においても市四郎に次ぐ良工として聞こえました。
1860年(万延元)に辞して京都に帰り、のち幹山伝七の工場に入りました。
得意の急須をつくり名声があるようで、またそのほかにも水指・水注などをつくりました。
なお初代三浦竹泉のために急須を製作したこともありました。
まれに徳平の銘を入れました。
1902年(明治三五)没、七十余歳。
(『湖東焼之研究』)