竹本隼太 たけもとはやだ

marusankakusikaku
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

明治初期の窯業家。
実名正典、幼名八十五郎。
1848年(嘉永元)江戸深川高橋大工町(江東区)に生まれました。
家は代々幕府の旗本で、父要斎は外国奉行を歴任し五千石を領しました。
隼太は十六歳から出仕し従五位下美作守に進み、1865年(慶応元)5月の長州征討の時には将軍に従って大阪に逗留しましたが、その際たまたま楽焼の方法を聞いて小盃を焼き始め、作陶のおもしろさを知ったといいます。
1868年(明治元)父要斎と共に高田村(豊島区)に隠れましたが、一時有造館のフランス学教授となったこともありました。
彼の愛した草花のことで良吉という者がその家に出入りしていたが、この良吉は瀬戸の人で陶業に通じていましたので、隼太は彼を師として高田豊川町・(豊島区)に窯を築き含翠園と号しました。
初めは薩摩風の彩画のものを焼きましたが、およそ収支が償わず多大の負債を抱えるに至りました。
そこで煉瓦石・土管などを焼き、イギリス公使館・横浜居留地開拓などに用いられたが依然として困難が続き、事業を縮小し陶工一人だけになりました。
しかし河原忠次郎・納富介次郎らがフランスから帰国しますと、彼らについて大いに発明するところがあるようで、1877年(明治一〇)第一回内国勧業博覧会の際には薩摩焼草花模様の香炉を出品して賞牌を得ました。
1879年(同二一)交趾風の花盆・水盤を焼き始め、また白磁製糸具を焼き富岡・桐生地方へ出し、この頃から次第に名声が高まってきました。
その後技芸はますます進歩し、玳玻釉・紫薇釉・纐纈釉などを創出して世に賞賛され、また多くの博覧会・共進会などの審査にあずかりました。
1892年(同二五)11月30日没、四十五歳。
(『大日本窯業協会雑誌』六『工芸鏡』)

前に戻る
Facebook
Twitter
Email