平賀源内 ひらがげんない

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鶴田 純久の章 お話
平賀源内
平賀源内

名は国倫、字は士彝、鳩渓・天竺浪人・松簸子・風来山人・森羅万象翁・無根叟・福内鬼外などの号があります。
讃岐国志度浦(香川県さぬき市)の人。
1728年(享保一三)生まれ、1779年(安永八)没、五十一歳。
本草学者で、戯作の著書も多いようです。
独創縦横の才智はすでに有名でありますが、また陶器にも興味をもち、宝暦年中(1751-64)長崎において交趾焼の技法を修得し、これを甥の源吾および赤松松山らに伝えました。
源内焼がそれであります。
さらに1771年(明和八)5月肥後国(熊本県)天草郡深江産の原料でその地に陶磁業を起こし、大いに国内の産業を振興すべしと『陶器工夫書』なる建白書を時の代官揖斐十太夫に提出しました。
これはついに実現しなかったようでありますが、源内が江戸より妹婿権太夫に送った書状の一節には「源吾を遣はし長崎にて焼かせ唐阿蘭陀へ渡り度と御役人方へ御談致掛置候是日本の土にて唐阿蘭陀の金を取る工夫に御座候云々」とあることからも、時代に先駆けた計画がうかがわれます。
その著『物類品隠』土部には陶磁用の土に関する記述があります。
(『日本陶磁器史論』『讃岐陶磁器史稿』)

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