長崎県佐世保市三川内町の磁器。
三川内焼とも呼ばれています。
平戸焼の称はこの窯が平戸藩主松浦氏の御用窯であったことから名付けられたものであるようで、三川内は平戸から五二キロの地にあるようで、同地には別系の木原窯があります。
【沿革概要】慶長の朝鮮の役(1597-8)に際して平戸の領主松浦鎮信は数十人の朝鮮人を伴って帰りましたが、その中の熊川の生まれで巨関という者は特に製陶に長じていましたので、平戸島中野に築窯して製陶に従事させました。
これを中野焼といいます。
巨関の子三之丞はのち今村姓を賜りました。
父と共に製陶に携わっていましたが、1622年(元和八)領主の命を受けて陶土の発見のために父の家来久兵衛とその他の弟子を伴って各地を徘徊し、しばらくの間領内折尾瀬村薩ノ元(佐世保市木原町)に仮住して諸方を探究しました。
その結果同村三川内免小字吉ノ田(同三川内町)、相木場(同)、早岐村字権常寺(同権常寺町)、日宇村字東ノ浦(同日宇町)の四ヵ所で陶土を発見し試焼研究しました。
また嬰(高麗姐)という者が椎ノ峯(佐賀県伊万里市南波多町)から来て三川内に仮住して陶器をつくりました。
嬰もまた名工で、世人にすこぶるもてはやされ、高麗焼と呼ばれました。
三之丞は父の勧めによって陶技研究のかたわら陶土の発見に努め、1634年(寛永一二に領内江上村三ツ岳(佐世保市江上町)に白土場を発見しました。
ただちに白焼きを試みたが結果はおもわしくなく、さらに苦心を重ねてついに良質の磁器をつくることに成功し、世人に賞賛されました。
1637年(同一四)三之丞は領主の補助を受け、三川内字丸山に住み長葉山に工場を設けました。
この間の磁法習得に関し、三之丞は竜造寺領有田南川原の高原五郎七方に弟子人りし、妻某に釉薬調合法を盗ませ、危害を恐れて五郎七のもとを脱出し、のち五郎七の病死を聞いて大村領中尾山に出て初めて製磁を試みましたが、平戸領主の召還するところとなり、三川内長葉山に新窯を構えたとの伝説があります。
1643年(同二〇)領主の許可を得て領内木原山(佐世保市木原町)および江永山(同江永町)に製陶場を分設し、弟子小山田佐平を木原山へ、辰次郎を江永山へ派遣して担当させました。
三之丞自らは三山の長となりこれを総管しました。
三之丞の子に弥次兵衛如猿という者かおり、父に従って陶業に従事していましたが、未熟であることを自覚して苦心探究した結果、1662年(寛文二)ついに天草石を発見し(1712、正徳二年、あるいは元文年間、1736-四一年に横石藤七兵衛が発見したともいわれる)製磁に成功しました。
如猿の技術は非常に精妙になり、その名声は遠方にも伝わり公儀献上品および諸侯の用命を受け、禁裏献上品の下命をも受けるようになりました。
それ以来領主は代官役所を設置して陶器山の一切を管理させました。
今村家は三代如猿以後八代までいずれも弥次兵衛を名乗り、九代祖八(楚八)・十代土太郎・十一代祖八・十二代甚三と続き、高麗姐の家系は五代までは中里茂右衛門を名乗り、六代紋右衛門・七代藤五郎・八代藤七郎・九代繁太郎・十代徳寿と継承されました。
窯は代官の管轄下に、琥輔部・捻り物部・絵師など約二十人の職工を擁し、各自二人扶持を与えられて整然たる組織をもち、これを三川内御細工所と呼んです。
1837年(天保八)頃池田安次郎が純白で卵殻のように薄い磁器を製作しました。
文化(1804-18)から天保(1830-44)の間オランダ人から長崎の商人を通じてコーヒー器具の注文があるようで、今村槌太郎がこのことを領主に上申して盛んにこれを製造しました。
藩からも役人を長崎に派遣して平戸焼物産会所を設置し、一手にこれを売りさばきました。
その結果当時三川内近傍の窯業関係者は五百戸に達する盛況を呈したといいます。
1865年(慶応元)福本栄太郎が経営を担当し、1871年(明治四)にこれを古川澄二に譲りました。
福本・古川らはさらに万宝山商舗を組織して長崎貿易に従事しました。
1874年(同七)古川はこれを豊島政治に移譲し、豊島はさらに各地に販路を拡張しました。
以上が沿革の概要でありますが、他藩のこの種の事業に比べて藩主松浦氏が終始一貫して補助を続けたことが特徴的であります。
[製品]最初は陶器で、『陶器考付録』に「唐つといひ来る内にあり白土鼠薬の小くわんにうにて井戸に似たる薬なり塩笥水指建水茶わん茶入等もあり是に元つきて見分へし今は白高らいのやうなるものを焼く」とあります。
今村三之丞が磁器を創出してからはもっぱら磁器だけになり、1699年(元禄一二)には禁裏献上の器を調進するまでに進歩しましたが、当時の作品には染付・錦手・盛上細工物・彫刻物・捻り物・型物・透かし彫りなどの精巧なものがあります。
また三川内御細工所時代には青花で松樹下に遊ぶ唐児を描いたものをつくり、特に貴重品として市販を禁じ、幕府への進献と諸侯への贈答用にのみ供しました。
七人唐子・五人唐子・三人唐子などがあるようで、七人唐子が最上とされています。
さらにのちには赤絵・金欄錦付二度焼などを製し、品種は花瓶・急須・鉢・徳利・水指・水呑み・盃。
コーヒー器・花生・硯屏・煎茶碗・茶具・香炉・水入・大鉢などであります。
その特徴はこの窯が終始一貫して平戸藩の御用窯であったことを反映しており、精美の一言に尽きます。
素地は純白で仕上げがことに美しく、中国清朝の康煕から雍正・乾隆(1662-1795)にかけての中国官窯の精美なものを範としています。
次に平戸焼では鍋島のように形態に一定の標準がなく、むしろ磁質と装飾を重視しているようであります。
この器形に対する無関心さは平戸焼の欠点の一つに数えられます。
鍋島と平戸の相異は、平戸焼の絵付が鍋島のそれより非常に繊細で弱々しい感じがする点にあります。
また平戸焼の呉須は一般に鮮麗な明るさをもっています。
(『退閑雑記』『甲子夜話』『松屋筆記』『陶器考付録』『本朝陶器孜証』『工芸志料』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『窯工会誌』三『大日本窯業協会雑誌』八五『観古図説』『陶器類集』『日本陶磁器史論』『日本近世窯業史』『平戸焼沿革一覧』『陶器講座』二)