薩摩焼の開祖。
もと朝鮮星山の人で、名を金海といきました。
1595年(文禄四)に島津義弘に従い帰化し、1596年(慶長元)に大隅国帖佐(鹿児島県姶良市)に窯を開いました。
その原土・釉薬は朝鮮より携行したものといいます。
義弘は人層彼を嘉賞抜擢して士族となし、氏名を星山伸次と改名させました。
この時二十六歳。
義弘はさらにまた毎年扶持米十五石を支給して朝鮮人陶工を優遇しました。
その後命令で帰化人高城元六左衛門と共に京都・尾張(愛知県)地方に五年間派遣され瀬戸法を受けて帰りました。
1607年(慶長一二)に義弘が加治木(姶良市加治木町)へ移城となると仲次は一族と共に従い、同地日木山の土器園に築窯、依然として義弘の用命を受けました。
1619年(元和五)義弘が加治木城で没し加治木窯も廃止となりました。
翌年家久の命により鹿児島城下竪野(鹿児島市)に移り竪野窯を創始しました。
1621年(同七)12月没、五十二歳。
子弥右衛門(金和)・休左衛門(金林)は共に竪野の陶業に従事しました。
そしてその世嗣はみな伸次といいます。
なお伸次の初名を芳仲としたものがありますが、芳伸は芳珍と呼ぶ帰化陶工の別名であります。
(『薩摩焼総鑑』)