略して雍窯、中国清代雍正年間(1723-35)の景徳鎮官窯。
1727年(雍正五)年希尭がその監督の任務に当たり、翌年唐英が景徳鎮に来てこれを補佐し、康煕六十年の窯業の殷盛を承けてさらに著しく発達させました。
景徳鎮の御器廠より発見された「事宜紀略」という碑文(1735、雍正一三年、唐英の選述)には、当時の雍正窯における代表作五十七種を挙げています。
これによれば当時の雍正官窯は宋代および明代の各古名窯の典型的なものはみなこれを彷造し、さらに西洋並びにわが国のものまでに及んでいます。
これでその盛況をみるに十分であります。
特称すべきことは不透明な白色磁鄙をやや厚く施した上に薔薇色・豚脂・青・緑・黄などをもってした粉彩で、常に康煕窯の五彩と対照されます。
たいてい花斉や草虫を描き、花井は憚南田に似て没骨の妙を有し、草虫は炎々と生きているようで、技術発達の極にはその精巧さが言語に絶する古月軒の出現をみました。
この磁鄙技術は広東がその中心地であったため、初め景徳鎮より素地を広東に送り絵付しました。
それゆえ欧米の甕学者はこれに対してカントン一エナメル(Cantonenamel)という名を付けました。
粉彩の他に康煕の五彩も行われ、さらに廠官釉(わが国で蕎麦手という)、炉均釉(泥均と宜均の中間で生海鼠手に近いがまったく別の趣がある)、窯変釉(人工的窯変によるもの)、彷竜泉窯、彷永楽脱胎磁(精巧ガラスに近い)などが新製創造されました。
雍正窯では初め款字を用いることを禁止されていましたが、間もなく款字を行うようになりました。
『飲流斎説甕』にはその款字を有するものを二十一形式に分け、款字のないものを三形式に分けています。
(『景徳鎮陶録』『飲流斎説甕』『匈雅』『陶器講座』五)※ねんよう