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鶴田 純久の章 お話

大名物。
漢作肩衝茶入。
銘の遅桜は初花に対してであります。
もと足利義政のもとにあり、初花肩衝より以前の名器選挙であればおそらくこの茶人が世上第一と唱えられたでしょうが、すでに初花が第一とされたあとでしたので、『金葉集』の%「夏山の青葉まじりのおそ桜初花よりもめづらしきかな」の歌意に因んで義政が銘じたということであります。
初花のように晴れやかではなくいささか陰僻な感じがないでもありませんが、華美でないところにかえって高尚な品位があるといえます。
とかく景色が判明でないのはいささか物足らぬ心地がすると評されています。
伝来は次の通り。
足利義攷、京篠屋宗久(天正頃)、藤堂高虎(元和頃)、松平下野守忠郷(蒲生氏郷の孫、寛永初期)、徳川幕府(忠郷没後)、姫路城主松平下総守忠明、幕府(忠明没後)、甲府徳松君(1851、慶安四年)、幕府(1699、元禄二一年)、以来徳川宗家に伝来。
(『大正名器鑑』)

おそざくらかたつき 遅桜肩衝

漢作唐物肩衝茶入。
大名物。
「初花肩衝」 (24~頁)に対して、『金葉集』の「夏山の青葉まじりのおそ桜初花よりもめずらしきかな」 の古歌に因んで、足利義政が命銘し所持したと伝えられます。
天正の頃、堺の町人篠原宗久が所持し、その折に津田宗及がこれを見分し、よい壺ではないと評している(天王寺屋会記)が、釉景が地味で、どことなく陰欝な感じがしたためでしょう。
その後、元和年間(1615~24)、藤堂高虎の有となり、寛永のはじめ松平下野守忠郷(蒲生氏郷の孫、蒲生忠郷)に伝わりました。
寛永四年(1627)幕府に入り、二度の出入をみましたが、元禄十二年より柳営の宝蔵となり、「初花肩衝」の姉妹として珍 重さ:れていたものです。
後年、三こしき井小柴庵の手に入り、その茶会の席を飾りました。
茶入は甑・肩とも堂々として漢作肩衝の偉容を誇り、底の板起しもおさまりがよいです。
釉景は「初花肩衝」のような派手さはありませんが、総体に紫地に黒飴釉が漂い地味ではありますが、置形には黒飴釉が斜めに流れて盆付にまで達し、すこぶる美しいです。
【付属物】蓋 仕覆―二、浅葱地鳳凰丸紋緞子・縞間道(図版右より) 仕覆箱—桐白木書付 挽家―黒塗、貼紙書付 挽家仕覆―大牡丹緞子 内箱-桐白木書付 外箱 黒塗、金粉文字
【伝来】 足利義政 篠原宗久―藤堂高虎蒲生忠郷柳営御物 姫路酒井忠明 酒井忠広徳川家光 甲府徳松君―柳営御物―三井家
【寸法】 高さ:9.0 口径:4.9 底径:4.1~4.3 重さ:145

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