織田信長 おだのぶなが

織田 信長
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鶴田 純久の章 お話
織田 信長
織田 信長

窯業と信長との関係をみますと、安土築城の際に明様の瓦を用いたことや茶器に及ぼした影響などもありますが、特に注目すべきことは尾張・美濃(愛知・岐阜県)の陶業に対する保護政策であります。
諸書にみられる信長の制札および朱印状などがその現れで、従来の重商主義を破って生産業を保護した証拠であります。
「信長の瀬戸物制札」瀬戸界隈には旧家であることを証明するため信長の制札は多くの家に秘蔵されていますが、真の制札は瀬戸市品野の加藤新右衛門家にあります。
文には
制札 瀬戸
一瀬戸物之事諸郷商人国中往反不可有違乱事
一当郷出合之白俵物並塩あい物以下ぱ入不可有違乱次当日横道商馬停止之事
一新儀諸役郷質所質不可取之事
右の条々違犯之輩在之者速可加成敗者也働下知如件
永禄六年(1563年)12月日(花押)
すなわち瀬戸物の商売にたずさわる諸郷の商人は国中での往来が自由であること、当国(瀬戸)に瀬戸物と交換 おいて出合の市場に穀類・海産物の出入りは自由であり、市場の開かれる当日には商馬が市場を避けて横道を通行するのを禁じること、新しい課税・郷質・所質を取ってはならないこと、この三ヵ条に違反するものかあれば速やかに成敗を加えるということであります。
白俵物とは代俵物で瀬戸物と交換する穀類その他の俵物。
塩あい物は塩魚類の総称で今日のいさば物(乾魚など)のこと。
郷質・所質とは三浦周行の説によれば、債権者が債務者との間に、もし支払いの義務を果たさない場合には、時・所に関係なく見付け次第その所有財産を差し押さえられても差し支えないとの契約を結んでおき、その差し押さえを実行することをいいます。
『瀬戸窯之由緒記』という天保(1830-44)初年の写本には、「文政の中頃より制札及び証文ともに正月の窯屋のオヒマチの集会に之を出し酒肴を供へて参拝し、制札は新製取締役加藤新右衛門重郷の家に、証文は本業取締役加藤定蔵重教の家に於て各管理保存することとなりしも、何時のころよりか、両者共に之を自家のものN如く秘蔵して近来は正月にも之を出さず」と記されています。
現新右衛門は重郷五代の孫。
現に制札は写しと本物の二通があって、写しは第三条の〇〇〇〇郷質所質を郷賃所賃と誤り、また末文の右の条々違犯の犯を乱と誤り、12月の下の日の一字を削り、花押の上に信長の二字を加えています。
瀬戸諸方の旧家で所蔵するもの、『本朝陶器孜証』『をはりの花』『瀬戸町誌』『陶器類集』『日本陶磁器史論』『東春日井郡誌』『日本陶甕史』などことごとく誤り伝えています。
おそらく当初に写した者が、制札に対する知識不足のためにこのように書き改め、これが次第に広く伝えられたものらしいです。
「信長の朱印状」岐阜県多治見市加藤彦四郎家に所蔵されています。
瀬戸焼物釜
事如先規彼
於在所可焼之
為他所一切釜
不可相立者也
天正式
正月十一 信長(朱印)
四賀藤左衛門へ。
その文は朱印状にはその伝来を記した正徳二年(1722)の文書が添えてあります。
それによりますと、市左衛門は赤津に住んでいたのち瀬戸に移り、1574年(天正二)正月茶壺をつくって信長に献じ、信長は褒賞として朱印状を与えましたが、その後市左衛門は同業者に妬まれ、危害を恐れて朱印状を隠蔽し美濃久尻村に逃れて親戚新右衛門を頼り、名を与三兵衛景光と改めたといいます。
『瀬戸竃伝覚記』という古写本によりますと、市左衛門が久尻に逃れたのは1583年(天正十で、朱印状はのち多治見に移りましたが、1792年(寛政四)瀬戸・赤津・品野・多治見・久尻の五カ村の窯屋が親戚名乗りをして正月節振る舞いの参会を始めた際、この朱印状を持ち出し、当番の村方に1ヵ年ずつ預けておくことに約定し十ヵ年程続きましたが、その後どのような理由によってか中止され、朱印状はまた多治見に留まっていたといいます。
この時五ヵ村が交わした証文は今なお遺存しています。
【茶器と信長】天下制覇の中道にしてたおれた信長と茶器の関係を概観すれば、戦争と政治と経済の媒介物として茶器・茶の湯をみていたことでありました。
すなわち1568年(永禄一二上洛松永久秀を降し足利義昭を将軍職に就かせた時、久秀から作物茄子を、堺の政商今井宗久からは松島壺・紹鴎茄子などを納めさせ、翌年「名物狩り」として洛中の諸豪家から初花肩衝・富士茄子・蕪無花入・雁の絵などを取り、1570年(元亀元)には堺の代官松井友閑に命じて同所の名物を集めI覧ののちこの中から宗及菓子の絵・薬師院小松島壺・常祐柑子口花入・了雲貨状花入・宗久開山五徳その他を召し上げています。
また別には今川氏真から千烏の香炉、石山本願寺顕如上人かち小玉澗三幅対、三好義賢からは3日月壺などを収めました。
そして信長はまたこれらの茶器を部下功績の者におしみなく賞賜して茶の湯を免許しました。
1578年(天正六)播州経略の賞として御前の釜と月の絵を賜わった秀吉らがそれであります。
また武田氏討滅の恩賞として関東管領に任じ上州厩橋を賞賜された滝川一益も、実は一国一城に代えても珠光小茄子茶入がほしかったのにと悲嘆したとも伝えます。
世にこれらのことを信長の「茶湯政道」と称しました。
1582年(天正一〇)6月2日本能寺の変の際三十八種の名器が信長と運命を共にしましたが、これはかねて博多の茶人島井宗室との前約により秘蔵の名器を見せて茶会を催すためであったといいます。
なお信長は早くから京都の茶人不住庵梅雪を召し抱えていたが、のち堺の今井宗久・津田宗及・千宗易を茶頭とし安土城内に茶屋を建て、また京都では相国寺・妙光寺・妙覚寺などで茶会を開いています。

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