嘉納鶴庵 かのうかくあん

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鶴田 純久の章 お話

1862年(文久二)奈良の旧家中村家に生まれた。本名正久。
父尭円は町人であったが興福寺や春日大社の御用をつとめ、書をよくし好事家でありました。
鶴庵は寧楽学校(奈良にあった小学教員養成所)を卒業後、小学校の教員などをしていました、二十六歳の時兵庫県灘(神戸市東灘区)の白鶴嘉納治兵衛の養子となり、治兵衛と改めました。
灘の嘉納家は菊正宗の治郎右衛門家と白鶴の治兵衛家の二流に分かれ、白鶴の方は文化年間(1804-18)の五代目の頃、灘五郷のうち屈指の醸造家でありました。
ところが六代目に至り、明治維新の変動もあって盛時二十二蔵を誇ったものがわずか一蔵七百石にまで衰微しました。
鶴庵が養子となったのは六代目の没後三年でありました。
彼は店を整理してひたすら家業に励み、たまたま日清戦争の好況もあって家業を立て直し、日露戦争″第一次世界大戦の好況にともなう消費生活の上昇を契機に、灘第一の醸造元として致富を重ね、今日の白鶴の地盤をつくり上げました。
また中国陶器を主とする美術品の蒐集に凝り、1934年(昭和九)住吉(東灘区住吉区)に財団法人白鶴美術館を建てました。
また茶は石州流を学び、異風の道具茶を催しました。
1951年(同二六)1月没、九十歳。

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