長崎市伊良林町大窪山の地にあったものです。
1804年(文化元)長崎奉行肥田豊後守の命により、同地八幡町の大神甚五兵衛(一に甚五平)ほか三名によって開かれました。
のち甚五兵衛ひとりの経営となり、その弟卯平が二代を継ぎ、子甚五兵衛が三代を継いで従業しましたが、次第に衰えて廃窯のやむなきに至りました。
‘その後1859年(安政六)奉行岡部駿河守が再興しましたが、また経営困難に陥りまったく廃絶しました。
当初の製品は幕府への献上品、各藩の注文品などが多く、また中国へも輸出しました。
再興後においては上等品の販売を禁止し中等品以下を市場に出しました。
その製品の種類は雑多で素地は伊万里焼に似ています。
その絵付には主として長崎の津田南竹が当たり、時には鉄翁逸雲・水媚川・丹林・竹田や、また江稼圃・江芸圃・沈汗江も描いたといいます。
銘は角輪郭内に染め付けで亀山あるいは亀山製とあり、中等品以下のものは楷書または行書で亀山製または甕山とあります。
なお安政初年頃井田吉六並びにその甥三浦乾也がこの窯を再興し、留まること三年に及んだといいます。
(『本朝陶器孜証』『工芸志料』『日本陶器目録』『日本陶磁器史論』『陶器講座』二)