川原忠次郎 かわはらちゅうじろう

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鶴田 純久の章 お話

明治時代の窯業家。
肥前有田の人、1849年(嘉永二)4月生まれ。
1869年(明治二)郡令百武兼定か有田磁器の外国輸出を図り神戸・横浜の両地に出張店を設けると、翌年その横浜支店長として赴任。
1872年(同五)佐野常民に従ってオーストリアのウィーン大博覧会に出張、納富介次郎と共にオーストリア・ドイツ・フランスの各製陶場を視察して練習し、翌年帰国しました。
のち東京山下門内の製陶試験場に全国窯業家の子弟を集め、納富と共にヨーロッパ製陶法を伝習しました。
これから石膏使用法、機械継轜製作法が行われました。
1875年(同八)2月博覧会事務局御用掛り、7月内務省勧業寮出仕、1876年京都府共進会審査員、1877年3月工部省工作局出仕(勧業寮廃止につき)となりました。
この時塩田真・納富介次郎らが東京牛込(新宿区)に江戸川製陶所を起こすことになったため共にその事務に尽力した、1879年(同二一)辞して有田に帰り、深海墨之助・手塚亀之助・辻勝蔵らと精磁会社を起こし、1883年(同一六)オランダのアムステルダム博覧会に際し精磁会社の製品を持って再び渡欧、帰途ロンドンを経てフランスに至り、同国リモージュにおいて製陶機械を注文して翌年帰国しました。
これがヨーロッパから製陶機械を輸入した最初であります。
1885年(同一八)東京繭糸織物漆器陶器五品共進会審査員を命じられましたが、病におかされ同年7月帰郷、1886年6月かねて注文の製陶機械が長崎に到着したので翌春よりこれを据え付け、その7月1日に運転開始となった、病を重くして1889年(同二二)1月四十一歳で没しました。
実に明治期における陶業発達の恩人の一人でありました。
(寺内信一)

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