明治期陶磁工芸の功労者で、また瓢池園の経営者でもありました。
幕府金座年寄佐藤治右衛門の子として1844年(弘化元)江戸に生まれた。
十五歳で河原興一郎の養嗣子となり徒士見習を命じられ、のち将軍家茂の上洛に随従して京都において初めて愛陶趣味に入りました。
維新の変革後徳川家達の静岡藩に従ったが、廃藩となり1871年(明治四)東京に出て深川(江東区)に住んです。
同年式部寮に奉職し翌年1月には内務省勧業寮に入り、オ一ストリア大博覧会事務局御用掛りとなりさらに出品掛りに転じました。
同年5月陶画改良の目的で付属陶磁器製造所ができると大いに尽力して輸出向製品を向上させました。
1873年(同六)7月同官立工場の閉鎖後、深川区東森下町(江東区深川森下町)に新工場を開き瓢池園と命名、実弟渡辺吉弥らに監督させました。
その素地は瀬戸・有田・清水・栗田・薩摩に取り、画工七名で意匠・画材・描法・彩料の四点に注意し、かつ調合・研磨・焼成にも辛苦し、花瓶・香炉などの製品を多く起立工商会社を通して輸出しました。
いわゆる瓢池園風(東京絵付)であります。
その後内外の博覧会・共進会に出品して受賞したことは数えきれない程であります。
またこれらに事務取扱および審査官として関係しないことはありませんでした。
1890年(同二三)功績により藍綬褒章を賜わりましたが、陶業者としてこの栄誉をになった最初であるでしょう。
1896年(同二九)同業組合法の成立に尽力して初代東京陶磁工同業組合長となり、1902年(同三五)辞して京都に移住し・たが、依然として各種の博覧会・団体に関係し、特に輸出品の改良に功がありました。
翌年再び藍綬褒章の飾版を下賜され、またフランスからも陶画改良の功として記章を受けました。
1914年(大正三)8月28日没、七十歳。
なお瓢池園はこの間数回工場を移転し盛業を続けましたが。
1909年(明治四二)日本陶器会社の直営になり工場を閉鎖しました。
(『大日本窯業協会雑誌』二六七『河原徳立翁小伝』)