鬼子嶽窯・岸嶽窯 きしだけがま

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鶴田 純久の章 お話

唐津焼の古窯。鬼子嶽は今では岸嶽と改められ、佐賀県唐津市にあります。
後醍醐天皇の時の元亨年間(1321-4)、岸嶽西方の山中に朝鮮北方系の透明灰釉を施した飯洞甕窯が創始されたといいます。
唐津焼の起原は極めて古いというが施釉の陶器はこれが初めて。後年その西南の帆柱山中に不透明釉を施した帆柱窯が起こり、また飯洞甕窯の上部に飯洞甕上窯、稗田の杉谷(北波多村)に皿屋窯、相知村(同郡相知町)に道納屋谷窯・平松窯・大谷窯が続いて起こり、切木村(同郡肥前町切木)には小十官者窯が起こりました。
これらの陶窯は1594年(文禄三)まで270年の間岸嶽吉志見城主波多氏の保護奨励もあって大いに発展し、今日のいわゆる古唐津を産出しましたが、1594年理由あって波多氏は豊臣秀吉のために領地を没収され、同時に岸嶽の各窯も廃されて陶工は各地に逃れ離散し、東に逃れて山瀬上窯・下窯(同郡浜玉町山瀬)を開き、西に逃れて南波多村(伊万里市南波多町)に櫨ノ谷窯を起こし、あるいは遠く去って三川内(長崎県佐世保市三川内町)に泣早山窯を開いましました。
【岸嶽飯洞甕窯】北波多村大字帆柱字鮎帰。窯は割竹式で、まるで竹を二つに割って伏せたような形をしたものです。
すなわち窯室の仕切が竹の節に当たり、天井は蒲鉾形。今日なお窯床を現存します。
出土品の品種は壺・徳利・摺鉢・片口・茶碗・盃その他さまざま。釉薬は透明性の黒緑色および灰白色の二種で、一面に小さく強い貫入があります。
中期から鉄釉の粗画を付け灰白色釉を施したものを出しました。
すなわち絵唐津の初めであります。
末期には型紙を使用して鉄釉を引き草花の模様を出した絵唐津があります。
【岸嶽帆柱窯】北波多村大字帆柱字帆柱。窯は割竹式。品種・粘土・技法などは飯洞甕窯に同じですが、釉薬は黒緑色および灰白色は少なく、九割までは不透明性海鼠釉。わが国の海鼠釉の創始であるようで、器物は朝鮮唐津といわれるものの中で最も古いものです。
皮鯨手の手法はこの窯に起こりました。
茶碗の縁が外に反っているのはここの特徴で、グイ呑みが最も多くつくられました。
おそらく飯洞甕窯の分窯ではなく、別に朝鮮から渡来した陶工が開窯したものでしょう。【岸嶽飯洞甕上窯】北波多村大字帆柱字鮎帰。飯洞甕窯の分窯と思われ窯式その他はほとんど同じ。作行は少し厚く焼締めはややぬるい感じ。【岸嶽皿屋窯】北波多村大字稗田字杉谷。帆柱窯の分窯で岸嶽古窯中勾配が最も急な窯。今は窯床が残存するだけです技法・釉薬その他ほとんど帆柱窯に同じで、壺・徳利の大物は透明釉が薄く施され、よく熔けずに帯黄色を呈し、海鼠釉には鉄分が多く派手で、むしろ凄味があります。
朝鮮唐津の振出しは最も多くこの窯でつくられました。
「岸嶽道納屋谷窯」唐津市相知町大字上佐里字道納屋谷。岸嶽古窯中最も登りの長い窯で、品種その他は大体飯洞甕窯と等しいですが、製品の三分の一は海鼠釉があります。
特に珍重すべきことは天目茶碗が出たことで、また茶入の試作もあります。
絵唐津はこの窯で最も進歩しました。
「岸嶽平松窯」相知町大字上佐里字平松。品種・窯技など飯洞甕窯と同じですが、粘土の鉄分が多く釉色は黒緑色だけで窯歪のあるものが多いようです。
海鼠釉・絵唐津は出ないようです。
以上の窯の開窯年数は六百五十年から四百年前。廃窯は1594年(文禄三)。

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