黄瀬戸 きぜと

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鶴田 純久の章 お話

黄瀬戸 きぜと 黄瀬戸 きぜと 黄瀬戸 きぜと

瀬戸系陶窯所産の古陶の一つで、潤い、淀みのある軟かい淡黄色の釉をかぶっています。
『工芸志料』に「黄瀬戸は第二世藤四郎某陶器に黄色釉を施すことを発明し始めて瀬戸窯に於て淡黄釉の茶壺、香炉、花瓶、茶碗等を製す、是より先瀬戸の陶器はみな茶褐色の釉のみを施せり、是に至りて始めて黄色の釉を施す、因て之を黄瀬戸と名く、爾来相次ぎて製出して今に至れり」とあるようで、黄瀬戸の創生を二代藤四郎とします。
しかし『工芸志料』の説は前出のどのような記載にも見当たらず、おそらく『茶器弁玉集』の「真中古茶入に黄薬手あり」との記事より断定したものであるでしょう。真中古窯・中興名物春山蛙声茶入などは、釉立ちは黄釉手であるが今日いうところの黄瀬戸ではないようです。
黄釉手と黄瀬戸はもとより区別があります。
黄釉手は酸化焔焼成による鉄分の淡黄緑色化であるようで、これは古く瀬戸の製器に偶成されたもので、二代藤四郎の茶入に限らずこの発色はみられます。
黄瀬戸はより時代を降って、伝統的黄釉手の偶成条件を研究して意識的にその発色を得ようとしたものであって、その呈色は黄釉手のように不確実なものではないようです。
すなわち黄釉手は黄瀬戸発生の先駆をなすものでありますが、黄瀬戸そのものではないようです。
俗に黄釉手を指して椿窯手の黄瀬戸というのは、単に便宜上の称呼にすぎないようです。
そして黄瀬戸は窯式発達よりいえば半客窯時代の技術であります。
『茶器便覧』『和漢名器博覧』『目利草』『茶器名物図彙』などには伯庵茶碗を黄瀬戸としています。
しかし伯庵茶碗の本歌とされる曾谷伯庵所持のものには、小堀遠州はただ「瀬戸、伯庵茶碗」と箱書しただけで、黄瀬戸とも真中古とも記されていないようです。
今日、伯庵そのものが瀬戸産か否かを決定し難いですのに、伯庵は黄瀬戸なりとする説ははなはだ不当なものであります。
『茶碗茶入目利書』に「黄瀬戸、尾張瀬戸焼後時代也、地薬ひわ色光有り、くわんにうひいとろ薬交る、高台廻り土見る形筒形平形杉形色々有」とあります。
この説が最も妥当であるようで、黄瀬戸は前述のように半客窯時代(志野焼と同時代)すなわち利休・織部頃の産物で、このことはかつて加藤唐九郎が美濃窯下窯より「文禄二年(1593)」の年記のある黄瀬戸の破片を発掘したことからも実証されるであるでしょう。黄瀬戸の名称はまた利休の頃よりあるものであるだろう、諸茶書に利休好みの黄瀬戸がみられます。
また『槐記』の享保九年(1724)・十一年(1726)・十八年(1733)の記事中に、黄瀬戸の猪口・花生・茶碗がみられます。
黄瀬戸にはぐいのみ手・あやめ手・菊皿手の三種類があります。
大体においてぐいのみ手がまず焼かれ、次いであやめ手に及んだものでありますが、技術的にみれば厚手のぐいのみ手は火床近くの強火の当たるところに置かれ、薄手であるあやめ手は、胆磐が揮発して呈色が消失しやすいため強火を避けて窯の奥部に置かれて同時に焼成される場合があるようで、両者の時代的区別は必ずしも前後あるものといえないようです。
利休は長次郎の茶碗にみられるような枯淡を好み、織部はI歩出でて意匠の変化をねらいます。黄瀬戸においても比較的単純なぐいのみ手は利休の好み乏思われ、胆磐を加えて意匠の効果を求めたあやめ手は織部の好みから出たものと認められます。
黄瀬戸の名物としては銘朝比奈の茶碗・利休所持立鼓の花人・同じく利休所持大脇指の建水などがあります。
「ぐいのみ手」この黄瀬戸は肉が分厚で釉に比較的光沢があるようで、いわゆるビードロ肌であります。
釉が厚く流れたところには海鼠釉の現れた場合が多く高台の中の釉に特に味があります。
この手には胆磐はみられないようです。
黄釉手より器物の種類が多くなり、したがって形も変化に富みます。香炉、蓮花型の鉢、あるいは印花文や櫛目の皿などがあります。
これを焼いた窯は瀬戸の朝日窯、美濃国可児郡大萱(岐阜県可児郡可児町久々利)の窯下窯、または恵那郡郷之木(土岐市曾木町)など。この手を伯庵の釉に似ていることから伯庵手の黄瀬戸と呼ぶ者がいます。
[あやめ手]あやめ手とは井上家旧蔵のあやめ文様の縁鉢と同種類の黄瀬戸を指す。
薄作りでいわゆるあぶらげ肌をなします。
釉下に簡素で高雅なあやめの線刻文を施し、この線刻に少しもとらわれずに極めて奔放な鉄褐色と銅緑色との斑点が落下し、高台内に五徳痕のコゲを有します。
茶人のいうすべての約束は具備され他のものにはこれをみないようです。
[菊皿手]美濃国大平窯または笠原窯、尾張国(愛知県)品野窯などよりおびただしく発掘された菊形の小皿と同種の黄瀬戸をいいます。
すこぶ名光沢が強く貫入は微細で黄色が鮮明。縁に銅緑色の鮮かな覆輪を掛け、これが流下して黄緑が交錯し派手な美しさをなします。
すべて厚作りで日常雑器が多いようです。
片口は胴に、醤油注しと壺は肩に銅緑釉を惜し気もなく掛けています。
これは指導者を失った窯で焼き出されたもので、あやめ手の静寂高雅な美しさを解しない俗眼にはかえってこの方が美しく見えたのであるでしょう。この手法は永く継続され今日なお摺鉢などにその名残りを留めています。
黄瀬戸を焼いた窯跡について付記すれば、岐阜県可児郡可児町字大萱の窯下窯・牟田洞窯・中窯の三ヵ所と、同字大平の由右衛門窯、同県土岐市泉町久尻の元屋敷窯の五ヵ所において、ぐいのみ手やあやめ手の優良なものが発掘されています。

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