北大路魯山人 きたおおじろさんじん

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鶴田 純久の章 お話

今世紀のわが国陶芸界に大きな足跡を残した異色あふれる陶芸家。1883年(明治一六)3月、京都上賀茂神社の社家北大路家に生まれ、ただちに養子として他家を転々とする数奇な生立ちをし、最後の養家の名を冠して福田房次郎と称しました。
貧窮のうちに小学四年を終える頃から書法に才を出し、上京して岡本可亭の弟子となりました。
やがて篆刻や扁額の彫成にも秀で、京都の富商で一代の数奇者内貴清兵衛の後援を受けた。
内貴の仲介で多くの数奇者や芸術家と接して次第にその多面な才能を伸ばした房次郎は、鴨亭・大観と号し、生来の味覚を実践に移して料理に通じ、大正末年中村竹四郎と共に星岡茶寮を東京山王日枝神社畔に設立しました。
この頃から茶寮で用いる陶磁器の制作に手を染めた魯山人は鎌倉山崎に築窯し、独特の風格あふれる雅陶を次々と創案し、陶芸家としても人をなしました。
その作陶は多くの古典を究めて新奇を盛り、雄渾な趣に富んだしかも用に徹したものといえましょう。その芸術にみるように魯山人の人となりは鋭敏な感覚にあふれる一方、極めて傲岸不遜であるようで、そのために波乱万丈の生涯を送り、逸話伝説の類は枚挙にいとまないようです。
1959年(昭和三四)没、七十六歳。

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