絹屋窯 きぬやがま

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鶴田 純久の章 お話

近江国(滋賀県)彦根藩窯湖東焼の前身。
初め彦根城南晒屋の地において絹屋半兵衛が起こしました。
存続期間は1829年(文政二一)10月から1842年(天保一三)9月までの十四年間。
初窯は宇兵衛や平助を誘って共同出資で焼成したが不成功に終わり、1830年(天保元)第二回の際にはやや良品を得て藩主に献納、御用命を受けました。
しかし収支が最初の計画のようにはならず、また平助・宇兵衛が相次いで去りました。
以後半兵衛が独力で経営しましたが、依然欠損のため二回にわたり藩の国産方から資金を借り入れました。
陶工には有田地方から招いたもののほかに喜平・喜三郎・佐平らがいます。
絵師は不明。
製品は赤絵および染め付け物などで、銘は「湖東」と称したものもありますが、無銘のものが多いようです。
また「沢山初製」とあるのは、1830年窯を佐和山(彦根市)の麓に移した際の最初の焼成品であります。
1842年9月藩窯開始のためその上納を申し渡されて止んです。
半兵衛はのち井伊直弼の代の1852年(嘉永五)4月に至り、創業の功によって苗字伊藤を許されましました。
1860年(万延元)6月没、七十歳。
(『湖東焼之研究』)

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