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鶴田 純久の章 お話

化政期(1804-30)の京都の陶工岡田久太。
別に桜久太とも呼ばれ急須の名人として知られます。
その伝はいまだ不明だが加賀国(石川県)の人かともいいます。
鮮かな琥櫨の特技で一時木米の窯にいましました。
「唐急ひしやうの名人也、人柄至て崎なり、ゆゑに又其製造も大に風流なり、大いに世に行はる」と記録にあるように奇人でありしかも名工と喧伝され、『茶具図譜』『平安人物誌』などにも載せられています。
遺作の急須をみると多く白泥の薄作りで、鴻毛のように軽く琥輸は巧緻を極めています。
銘印は桜花の輪郭内に「久」字を表したものを把手の下面に押しているものが十中八、九を占め、またこの印と一種読みにくい長方印とを連用したものがあるようで、あるいは「久太」の草書楕円印、「長久造」の箆刻印、「久太」の二字の花押崩しなどがあるといいます。
しかしこれらの銘印がすべて初代久太のものであるかどうかは疑問。
なおその家は京都粟田神社参道入り口の西南にあったといいます。
1832年(天保三)8月20日没。
その二代は久兵衛、1877年(明治一〇)9月没。
三代鹿之助は琥輔を得意として土瓶・花生などをつくりましたが、理由があって一時紀伊国(和歌山県)に赴き、滋賀県大津市 また近江国膳所にもいたといいます。

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