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鶴田 純久の章 お話

中国広東省肇慶府陽江県にあるようで、宋の南渡後に創始されたといいます。
その後明代に至り南海県仏山鎮の石湾村に移り、陽江の旧窯はすでに消滅したといいます。
近世これを仏山窯または石湾窯と称して大量生産を行っているようであります。
いわゆる広東海鼠と称するものでありますが、中国人はこれを泥均などと呼び賤視します。
宜興でつくられたものと釉色が似ているので往々混同されます。
ただし『景徳鎮陶録』によると陽江県で磁器を産出し炉・瓶・埴・媒・碗・盤・壺・食などの種類があって華麗であったといいます。
もしそうであるならば陽江県の窯が明代に石湾に移動して旧窯は消滅したということは疑問であります。
1904年版のケル著『広東案内』によりますと、石湾窯では日用の雑器・装飾品などを焼成・施釉したといいます。
また明末・清初以来磁器がヨーロッパ向け重要輸出品として数多く製造・輸出された時代には、景徳鎮以外に広東で製造されたり上絵付されたものが少なくないはずで、中には外国船が広東に停泊中船長の好みでその船の絵を皿・鉢などに描かせたものもあるといいます。
もちろん広窯では生海鼠手だけを焼いたのではなく、青花・彩華など種々のものを焼造したのであるでしょう。
なお陽江県の窯が南宋に始まったということは、おそらくその頃に繁栄した事実を指すもので、それ以前より、土窯・雑窯の類は存在していたであるでしょう。
(『匈雅』『飲流斎説甕』尾崎洵盛)

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