三文字屋九右衛門 さんもんじゃくえもん

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鶴田 純久の章 お話

京都粟田焼最初期の陶工。もと尾張瀬戸の人。1624年(寛永元)粟田口三条通蹴上今道町(東山区)に来て住み、茶入・茶碗・猪口・鉢・香炉・禽獣虫魚人物像などを焼いた。いずれも巧みであった。窯は同町南側の字華頂畑にあって、安政(1854~60)頃は一文字屋佐兵衛が継いでいた。後代までそこに九右衛門の辻という名が残っていた。九右衛門は三代将軍の時から長く御茶碗御用を勤めたが、それを始めた年時は不詳。土は初め遊行、神明のあたり、東岩倉山から取ったが、その土が絶えたので幕府に願い出て近江国野洲郡南桜村(滋賀県野洲郡野洲町南桜)に地を賜わりその土を用いた。九右衛門の後裔は多くその地で陶業に従事した。しかし1745年(延享二)には子孫が窮乏し相続にも差支えて、公儀御茶道に拝領金を願い出た。1758~9年(宝暦八、九)頃には九右衛門の家はますます不如意になり、御用の出来も悪くなってついに御用茶碗の儀は他家に仰せ付けられることとなった。その後の伝は聞かない。(『本朝陶器攷証』)

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