滝藤万次郎 たきとうまんじろう

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鶴田 純久の章 お話

明治初期の製陶家で、また輸出の功労者でもあった。名古屋茶屋町(中区)の人。1872年(明治五)フランス人某から瀬戸磁器数点の購入を託された時、輸出が有利であることに着目し、村松彦七江副廉造らと海外に赴き販路の拡張を図った。そしてすでに前年に瀬戸に起こしていた瀬戸物商社の支店を1874年(同七)東京に開き、さらに1881年(同一四)にはこれを横浜に移して直接に外国貿易を企図した。また石川県九谷の製陶を視察して陶画工十名を傭聘し、九谷の画風を模して瀬戸焼に描出させたところ大いに外国人の好みに適い、名古屋錦襴手と称して盛んに輸出された。そこで一層事業を拡張し、1883年(同一六)南外堀町に彩磁製造場を設け画工百人を養成した。これが各工場の模倣するところとなり、しばらくすると市内の陶器画工数は千二百余名に達し、名古屋陶器画焼付業組合を組織するに至った。(『名古屋市史』)

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