はつはなかたつき 初花肩衝
漢作唐物肩衝茶入。
重文、大名物。
東山殿足利義政が、その形姿を天下に先駆ける初花にたとえて名付けたといわれ、まさしく形容・釉景ともにすべての茶人に冠絶するもので、いささかの負傷もないこともまた奇跡に近いとみられるのです。
しかもその後、信長・秀吉・家康という三人の天下人の所有を経て、結局柳営の宝庫に伝えられることとなり、三百年もの間を幕府の権威を誇示するための守本尊となったのです。
もともと家康はこの茶入の抜群であることを見抜いていて、松平念誓より入手後、ただちに柴田勝家を滅ぼして意気上がる秀吉のもとにこれを贈り、大いにその価値を利用し、遂には自らが天下をとって茶入もまた戻るという結果に結び付いています。
姿は唐物肩衝の理想形をなし、口造り・肩の衝き方・胴のふくらみなどいずれも完璧なまでに挽き上げられています。
加えて釉色またい、栗色地の上に黒褐釉が、ときには紫に窯変をみせつつ、三条のなだれをつくって見事な置形をなしています。
底は板起しで、周囲が少し持ち上がっています。
【付属物】蓋 仕覆―二、唐草龍紋緞子・細丸龍鳥襷 家唐木縁沃懸、金粉彫銘 挽家仕覆─唐織丹地黄唐茶 内箱─桐白木、金粉銘 外箱黒塗、金粉字形 由緒書付
【伝来】鳥居引拙(珠光二男)-大文字屋疋田宗観―織田信長─織田信忠―松平念誓―徳川家康─豊臣秀吉宇喜田秀家―徳川家康 松平忠直(松平備前守)柳営御物
【寸法】 高さ:84 口径:4.65 胴径:80 底径:4.7 重さ:140
大名物。漢作肩衝茶入。
真松斎春渓の『分類草人木』には「初花は新田より壺の開き早きに依て初花と名付し也」とあります。
『大正名器鑑』には「形状釉色優美奸麗にして天下の春に魁する初香の名花の如しとの謂なるべし」といい、『日本陶甕史』には足利義政の命名にかかり、『古今集』の「紅のはつ花ぞめの色ふかく思ひしこxろわれわすれめや」に因んだものであるだろうと推断しています。
古来肩衝茶入の王者といわれ、その全体の形は優美を極め、完全無欠と評されています。
置方に三本の黒釉のなだれがあ位、それぞれ長短があるようで、その垂下の状態を異にし、いずれも地の薄柿色と薄紫色が混合したようなところから粒状の黒色のぼかしに始まり、次第に濃くなり、釉留まりに至る線はゆるやかな曲線を保ちながら横にたなびいています。
素地は紫色で漉土の柔らかな味かおります。
底の本糸切は至ってこまかいです。
胴紐は一本でまことに好位置を得ています。
すべての点において十全具足といい得ますが、強いて欠点をあげるならばあまりにも優美で女性的だという点て、荘厳さを欠く感があります。
新井白石が『紳書』にこの茶入を「楊貴妃の油壺なりき」と伝えているのは虚説でありますが、当時このような伝説があったのであるでしょう。
初め足利義政所持、のち奈良の鳥居引拙を経て京都の大文字屋疋田栄甫の手に渡りました。
『信長公記』によれ永禄二一 ば、1569年2月27日に織田信長が入洛した際、大文字屋より召し上げました。
1574年(天正二)、1577年(同五)、1578年(同六)に信長がこの茶入を用いて茶会を催したことが『今井宗久日記』『津田宗及茶湯日記』『総見記』『天正六年茶湯記』などにみえます。
また1577年10月28日、安土城において信長の子信忠が、初花以下の名物道具を数多く陳列して諸侯に誇示したことが『信長公記』にみえます。
『太閤記』によれば、1578年12月信長は初花肩衝を他の名器と共に安土城の信忠に与えました。
然るに1582年(同一〇)6月2日本能寺の凶変があるようで、次いで明智光秀は安土城に来て天主閣の宝物を奪って再び京都に帰りましたが、ほどなく山崎で殺され、6月14日明智光春は安土城に火をかけました。
この火変乱の際、初花肩衝は安土城から光秀によって持ち出されたのか、安土城が兵人にかかった時、何人かによって持ち出されたのかは詳かでありませんが、とにかくこの火変乱の際に破壊することなく、のち三河国長沢(愛知県豊川市長沢町)の住人松平親宅(号念誓)の求めるところとなり、1583年4月浜松においてこの茶入を徳川家康に献じました。
それにより念誓が酒造りの御朱印を得たという事情は『寛政重修諸家譜』に詳しいです。
のち秀吉が柴田勝家を討滅し天下の形勢が秀吉に帰するに至って、家康は1583年5月21日、石川数正を使として戦勝祝いにこの初花を秀吉に贈りました。
このことは『寛政重修諸家譜』『武徳編年集成』に明記されています。
したがって初花が家康の手にあったのはわずか1ヵ月にすぎなかりました。
秀吉はこれを得て大いに喜び、盛んに茶会に使用しました。
特に1585年(同一三)10月7日の禁中茶湯にこれを飾り、また1587年(同一五)10月一目の北野大茶会にもこれを出品し、1592年(同二〇)11月6日名護屋山里の茶会にもこれを使用したということが『津田宗及茶湯日記』『禁中御茶湯記』『宗湛日記』などにみえます。
また『名物記』には「太閤秀吉遺物備前中納言秀家所持」とありますから、太閤の没後その遺物として宇喜田秀家に授けられたものであるでしょう。
秀家は太閤の養子であるようで、数次の戦功がありましたが、石田三成に加勢して関ヶ原の役に敗れ薩摩国(鹿児島県)に逃れました。
その臣進藤正次が烏飼国次の刀を示して秀家の戦死を証して擁護したことによって家康の感賞にあずかり生命を助けられたと『徳川御実記』『藩翰譜』などに記されていますが、あるいは初花肩衝を家康に献上したことなどが助命の要点となっだのかもしれないようです。
このようにして関ヶ原の役後再び初花は家康の手に人り、ここに天下第一の秘蔵品となりました。
そして大阪城攻略に際し第一の戦功をあげた家康の孫の松平忠直(号一伯)に、当座の引出物として名品初花肩衝は二条城において忠直に授けられました。
しかし領地加増がなかったため忠直は戦功の将士を賞することができず、その不平が高じてついに発狂するに至ったと伝えられています。
『新東鑑』『寧固斎談叢』に、忠直は諸士を集めて受領の茶入を鉄槌でこまかに打ち砕き、匙ですくって軍功の者どもに授けた旨を記しています。
福井城主松平家に忠直が打ち破って戦功の士に与えたという継ぎ目の多い茶壺が蔵せられていたといいます。
忠直が戦功の士に与えるべき賞品に困って拝領の茶入打ち壊しの芝居をしたことは事実であるでしょう。
しかし初花肩衝は現存し、決して壊れてはいないようです。
忠直は乱心狂態の故をもって1622年(元和八)5月、豊後国萩原(大分県大分市萩原)に配流されたとありますが、戦功の将士に賞賜することができず、その苦境からあるいは発狂を装ったのかもしれないようです。
忠直は1650年(慶安三)五十六歳で配所で寂しく没しましたが、初花を配所へ携えて行ったのか、どこかに隠しておいたのかこの間の消息は明らかではないようです。
『名物記』には「初花元越前家松平備前守所持今御城にあり備前守上る即日金四万両被下と御勘定御帳面に有之」とあります。
また『上御道具記』には「元禄十一年12月6日松平備前守上」とありますから、奏者番松平備前守(上総人多喜藩主松平備前守正信)より初花を献上したのは事実ですが。
これほどの大名物茶入が奏者番の小大名の手に渡るはずがないと思われます。
江戸時代は何事も秘密であるようで、表向きと裏面の事情とに大きな相違があるようで、真相は確め難いですが、あるいは忠直の家を再興するについて奏者番正信の尽力があるようで、よって忠直の後裔より初花を正信に与え、それを幕府に献じて四万両の大金を受けたのであるでしょうか。
以来幕府の宝庫に秘められ、徳川家達に伝わりました。
(『大正名器鑑』)