赤津窯 あかずがま

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鶴田 純久の章 お話

尾張国(愛知県)の陶窯。
赤津は今は瀬戸市の一部となりその東部を占めています。
昔は飽津と書き、1464年(寛正五)の文書にそう記されているのか初見とされますが、1595年(文禄四)の文書には赤津の字がみられます。
鎌倉時代には加藤四郎左衛門景正(陶祖藤四郎)がこの地に住んで宋風の窯器をつくったと伝えらりれ、また室町時代には松原氏がこの地で作陶したといわれます。
天文年間(1532-55)赤津三郎右衛門が追覆手の茶入を焼いた記録があり、美濃国(岐阜県)久尻窯の開祖といわれる加藤景光も赤津から瀬戸に移り、のち1583年(天正一一)美濃に赴いたといわれます。
江戸時代初期に加藤仁兵衛・太兵衛・唐三郎の三家は尾張藩御用焼を命ぜられて御窯屋三軒といわれました。
江戸時代中期以降で著名な者は、月窓(山口孫三郎、寛政・文化)・四郎(加藤太兵衛景暉、文化・天保)・春竜(加藤唐三郎景久、文化・嘉永)・春岱(加藤宗四郎、のち仁兵衛、天保・明治)・春悦(加藤忠吉、同)・春位(山口佐十、同)・春仙(加藤作助、明治・大正)らがいます。
瀬戸市大字瀬戸か磁器を多く焼くのに反して、赤津は風雅な陶器を主として経済的には発達しない感があります。

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