


鍋屋肩衝(なべや かたつき)
別名:筑摩肩衝(つくま かたつき) 中国製(唐物) 大名物 伯爵 松平直亮 氏 所蔵
【名称の由来】
天正年間(1573~1592年)の頃、堺の町人である鍋屋道加(なべや どうか)が所持していたことからこの名前がついています。そして、この茶入を別名「筑摩(つくま)」というのは、本来の名前である「鍋屋」から、近江国(現在の滋賀県)の筑摩神社で行われる「鍋祭り」を連想して名付けられたものでしょう。
『雑和集』には次のように記されています。「近江国に筑摩明神という神様がいらっしゃる。その神様への誓いとして、女性がこれまで関係を持った男性の数だけ鍋を作り、祭りの日に奉納する習わしがある。関係した男性が多い女性は、みっともないと思って少しだけごまかして奉納したりすると、神様の罰が当たって病気などになってしまう。正直に数通り祈れば治るという。拾遺和歌集の雑恋の部にある、作者不明の歌に『近江の筑摩の祭りを早くやってほしいものだ。あの冷淡な人の鍋の数を見てみたいから』とある。」
おそらく、この祭りの逸話にかこつけて、女性の多夫を戒めるものだったのでしょう。
【寸法】
高さ:約8.3cm(2寸7分半)
胴の直径:約7.9cm強(2寸6分強)
口の直径:約5.0cm(1寸6分5厘)
底の直径:約4.8cm(1寸5分7厘)
肩の幅:約7.3cm強(2寸4分強)
【附属物】
・象牙の蓋 1枚
・御物袋(茶入を入れる袋):白の羽二重、緒の結び目は白
・仕覆(袋) 2つ
1. 波に梅紋の緞子(裏は萌黄色の海気、緒は紫)/包み物:白の羽二重、松平不昧の書き付け札付き
2. 望月広東の裂地(裏は萌黄色の海気、緒は遠州茶色)/包み物:白の羽二重袷、松平不昧の書き付け札付き
・袋箱:白木の桐箱、表面は黒みを帯びた金具付き。中子(懸子)に蓋を納める。包み物は紫の縮緬で裏地は紫絹。
・挽家(茶入を保護する木製の容器):黒塗りで中次(円筒形)の形。袋は阿蘭陀木綿(裏地は花色の緞子、緒は遠州茶色)。白羽二重の小さなクッション(蒲団)が1つ。
・内箱:黒塗りで銀の錠前付き。金粉で「鍋屋肩衝」、裏に「淀くまご改」と書かれている。
・外箱:溜塗りで内側は黒の掻合塗(かきあわせぬり)。包み物は縞木綿の単衣。
・添え盆:堆朱(ついしゅ)の葉入り模様。表面の対角線は約23.6cm、底の対角線は約15cm。包み物は白の羽二重袷。桐の白木箱に入っており不昧の書き付けがある。包み物は花布で裏地は御納戸茶色の羽二重。
【文献における雑記】
『東山御物内別帳』:なべや。神尾刑部殿が所持。
『古名物記』:鍋屋肩衝。内藤帯刀が所持。元来は蒲生氏郷の所持であったゆかりで内藤家にあり、現在は冬木喜平太にある。
『玩貨名物記』:なべや肩つき。唐物(中国製)の茶入。内藤帯刀殿が所持、朱書きで蒲生氏郷の所持とある。松平甲斐守、冬木喜平太、雲州公(松平不昧)と伝わる。
『古今名物類聚』:鍋屋肩衝。唐物の肩衝茶入。大名物。内藤帯刀が所持。
『諸家名器集』:鍋屋。将軍家の御物(宝物)から内藤家が拝領し、その後、冬木家、松平甲斐守、そして松平出羽守へと渡った。
『櫟山一有筆記』:将軍・徳川家光様へ内藤左馬亮がお茶を差し上げた由来を持つ、茶入「鍋屋肩衝」。
「近江なるつくまの祭こくせなむ つれなき人のなべのかずみむ」の歌が記されている。
『南葵文庫本諸家大秘録』:
鍋屋肩衝の茶入は、代金千両の価値があり、実物は真田伊豆守達直の家にあります。その理由は、かつて蒲生忠知公が急にお金が必要になり、信州松代城主の真田伊豆守へ滋野某という者を仲介して、一万両という大金を借りたからです。その時の質草として真田家へこの肩衝の茶入を渡しました。その後、お金も返済されず、茶入も戻ってこないうちに、ほどなくして蒲生家はお家断絶となってしまいました。
しかし、蒲生家の宝物のリストは幕府に提出されていたため、蒲生家断絶の際、幕府から岩原城主の内藤帯刀のもとへ使者が来て、「鍋屋肩衝の茶入を返還してほしい」と言ってきました。ですが、質草として渡した物ですから、「一万両を返済せずに茶入を取り返すのはいかがなものか」ということで、内藤家からは「元の役人にそのままお預けください」と返答があったため、今でも真田家に預けられているのです。
『雪間草茶道秘傳』:
鍋屋肩衝、別名・筑摩肩衝。高さ2寸7分半、胴2寸6分、口1寸6分半、底1寸6分。肩から口まで3、4分。茶入の内側にも凹凸があり、黒い釉薬が肩の部分に一筋ある。底の糸切りの跡は荒く、土の様子が見て取れる。現在は内藤帯刀殿(原文は安藤と誤記)の所持と書かれた書類が1枚ある。その後、真田伊豆守殿へ金一万両の質草となり、内藤家にそのまま残っていると伝えられている。卯の年の5月30日にお屋敷で拝見した。見事な茶入で、詳しい図がある。
『松屋日記』:
なべや(道加肩衝)は、特別に口が広い茶入であったため、古田織部殿が蓋を三度も作り直させました。しかし、結局はありふれた普通の肩衝用の蓋になってしまい、そのせいで肩が一段と狭く見えるようになってしまいました。
『名物御道具記』:鍋屋肩衝。酒井宮内公が所持、かつては郡山公が所持。
『茶器圖寸伝書』:筑摩肩衝、別名・鍋屋。内藤備後守の所持。最初は神尾五兵衛の所持で、後に松平下野守の所持となった。昔から金襴の仕覆(日野間道)が伴っている。
『麟鳳亀龍』:鍋屋。蒲生民部の所持、また内藤帯刀、神尾五兵衛、松平下野守、冬木甲州公と渡り、今は雲州公(松平不昧)の所持。口の柿色釉薬は薄く、黒色が少しある。
『伏見屋筆記名物茶器圖』:鍋屋肩衝御茶入。高さ2寸7分5厘、胴2寸6分強、口1寸6分。挽家(容器)は黒塗りの中次。袋は白地に花色の小縞の紅毛木綿。御物袋は浅黄色の羽二重。箱は黒塗りで錠前付き。金粉で文字が書かれ、後に「つくま」と改められている。外箱は春慶塗で、包み物は浅黄色の丸紋花布。(中略:図面に基づく茶入の形状や釉薬の細かい描写が続く)。
『不昧著瀬戸陶器濫觴』:鍋屋。漢作(中国製)である。鶴首の茶入と同じ時代の作である。
【伝来について】
『雲州寶物傳來書』:
鍋屋肩衝。天正年間は鍋屋が所持し、後に蒲生氏郷の所持となった。その後内藤家へ送られ、さらに冬木喜平次が所持した。寛政の頃には松平甲斐守様のご所持となり、文化元年に本屋惣吉の仲介でお買い上げになった。代金は金千枚。
『大崎様御道具代御手控』:
鍋屋肩衝。本惣(本屋惣吉)と本了(本屋了我)の仲介で四百五十両。
【伝来の詳細】
天正の頃、堺の町人である鍋屋道加が所持していたもので、後に蒲生氏郷へと伝わりました。その孫である忠知の代になって、急にお金が必要になり、この茶入を質草として信州松代城主の真田伊豆守信幸から金一万両を借りました。
ところが寛永11年(1634年)8月、忠知が跡継ぎのないまま亡くなり、蒲生家の宝物がすべて徳川幕府に没収された際、幕府はこの茶入が真田家に質入れされていることを知らずに、奥州岩代の城主である内藤帯刀忠興にこの茶入を与えてしまいました。真田家では、内藤家に対してこの茶入を引き渡そうとしましたが、内藤家は「一万両の借金のカタになっている茶入」を引き取ることを嫌がったため、その後も長らく真田伊豆守達直の家にあったといいます。
しかし、『櫟山一有筆記』には、内藤左馬亮がこの鍋屋肩衝を使って将軍・徳川家光にお茶を献上したという記録があります。そうだとすれば、その後内藤家はあの茶入を真田家から正式に引き取ったのか、あるいは一時的に借りて使っただけなのか、そのあたりの詳しい事情は今となってはわかりません。
それから神尾五兵衛、松平下野守、冬木喜平次と持ち主が変わり、寛政の頃(1789~1801年)には大和郡山城主の松平甲斐守の所持となりました。そして文化元年(1804年)、本屋惣吉と本屋了我の二人の仲介により、四百五十両の金額で松平不昧公が買い求めたものとなりました。
【実見記(実物を見た記録)】
大正7年(1918年)5月27日、松江市にある松平直亮伯爵家の事務所において実物を拝見した。
口の作りの折り返しが浅く、他の同じようなクラスの茶入に比べて口の直径が二、三分ほど広いのがこの茶入の大きな特徴である。首(甑)の中程に一本の線がぐるりと巡っており、首の付け根(甑際)にも同じく一本の線があるが、これは途中で途切れている。
全体的に飴色の釉薬がかかっている中に、小さな柿色の釉薬の抜け(地肌が見える部分)が四、五ヶ所あり、首の周りには黒く焦げたような釉薬がポツポツと現れている所がある。胴体を一周する沈んだ線の一端が、二段に食い違っている箇所があるのは、たいへん変わった作りである。
裾から下の底の部分はネズミ色の土の地肌を見せており、底が擦れた中に、細い糸切り(ろくろから切り離す際につく渦巻き状の跡)の跡が見え隠れして、二ヶ所ほど焦げた釉薬がくっついている。
全体的に飴色の地釉が濃くて暗いため、その釉薬が織りなす景色があまり引き立たない。口が大きくて少し品格に欠けるきらいはあるものの、胴の線の食い違いなどの個性的な特徴があって、面白い茶入である。
【原文】
鍋屋肩衝
一名 筑摩肩衝 漢作 大名物 伯爵 松平直亮氏 蔵
名称
天正の比堺の町人鍋屋道加の所持せるを以て此名あり。而して此茶入を一名筑摩と云ふは、本名の鍋屋より江州筑摩神社の鍋祭を聯想したる名なるべし。雑和集に、近江国筑摩明神と申す神おはします、其神の御誓にて、女の男したる数に随て鍋を作て、其祭の日奉るなり、男あまたしたる人は、見ぐるしがりて少し奉りなどしつれば、神のあしくて病みなどしてありければ、数の如くにして祈れば、なほりなんとすることあり、拾遺和歌集雑恋の部、題知らずよみ人知らずの歌に、
近江なるつくまの祭はやせなむ
つれなき人の鍋の数みむ
とあり。蓋し祭事に託して婦人の多夫に見ゆるを戒むる者なるべし。
寸法
高 貳寸七分半
胴径 貳寸六分強
口径 壹寸六分五厘
底径 壹寸五分七厘
肩幅 貳寸四分強
附属物
一蓋 一枚 象
一御物袋 白羽二重緒つがり白
一袋 二つ
波に梅紋純子 裏萌黄紋海気 緒つがり紫
包物 白羽二重 札書付 不昧
望月広東 裏萌黄紋海気 緒つがり遠州茶
包物 白羽二重袷 札書付 不昧
一袋箱 桐 白木 表黒み金物付
懸子に蓋を納る
包物 紫縮緬裏紫絹
一挽家 黒塗 中次 蓋二重に大面を取る
袋 阿蘭陀木綿 裏花色純子 緒つがり遠州茶
白羽二重蒲團一つ
一内箱 黒塗 銀錠前附 金粉書付
鍋屋肩衝
後
淀くまご改
一外箱 溜塗 内黒掻合塗
包物 縞木綿継合單
一添盆 堆朱葉入
表對角線の径七寸八分 底對角線の径五寸
包物 白羽二重袷 和巾
箱 桐 白木 書付 不昧
包物 花布裏御納戸茶羽二重
雑記
なべや 神尾刑部殿。 (東山御物内別帳)
鍋屋肩衝 内藤帯刀元来蒲生氏郷所持故あり内藤家に有之、冬木喜平太にあり。 (古名物記)
なべや肩つき 唐物茶入、内藤帯刀殿、朱書入 氏郷所持松平甲斐守、冬木喜平太、雲州公。 (玩貨名物記)
鍋屋肩衝 唐物肩衝 大名物 内藤帯刀。 (古今名物類聚)
鍋屋 御物夫より内藤家拝領、其後冬木、松平甲斐守、其後松平出羽守。 (諸家名器集)
家光様へ内藤左馬亮御茶被申候由来、茶入鍋屋肩衝。
近江なるつくまの祭こくせなむ
つれなき人のなべのかずみむ
(櫟山一有筆記)
鍋屋肩衝の茶入、代金千両、物は真田伊豆守達直の家にあり、其故は先年、信忠公(知の誤)急に金子入用の事ありて、信州松代の城主真田伊豆守へ滋野某を幸へ、金子一萬両借用したまふ、其質物として彼方へ肩衝の茶入を渡されける、其後金子も返済なく茶入も返らざりし處に、ほどなく蒲生家断絶す、然れども蒲生家宝物の書付公儀へ納りける故、蒲生家断絶の時、内藤帯刀(藤原忠興)岩原の城主内藤帯刀方へ使者を以て、鍋屋肩衝の茶入、返進致度しと云来りける、けれども質物に遣したる物なれば、一萬両返済せずしては茶入取返す事如何成とて、内藤家より先役指置被下候様に、と返答ありければ、今に真田家に預り玉ふ也。 (南葵文庫本諸家大秘録)
鍋屋肩衝 一名筑摩肩衝 高二寸七分半、胴二寸六分、口一寸六分半、底一寸六分、肩より口まで三四分、茶入の内にも凹凸あり、黒釉薬肩に筋一筋あり、底糸切あらく、土覚候。今に一枚書安藤帯刀殿(内藤帯刀殿の誤りなるべし)其後真田伊豆守殿、金一萬両質物、爰に安藤家同上に残ると云伝。卯五月三十日於御屋敷拝見、美事成御茶入大圖あり。 (雪間草茶道秘傳)
なべや、道加肩衝は、殊の外口廣く候に付、織部殿、蓋を三度御ひかせ候へども、終に有かひの肩衝蓋に成り候、肩一段と狭きなり。 (松屋日記)
鍋屋肩衝 酒井宮内公、嘗郡山公。 (名物御道具記)
筑摩肩衝 一名鍋屋 内藤備後守所持、初神尾五兵衛所持、後松平下野守所持、従古金襴日野かんとう。 (茶器圖寸伝書)
鍋屋 蒲生民部所持、又内藤帯刀、又神尾五兵衛、又松平下野守、冬木甲州公、今雲州公。柿口うすく、黒少し。 (麟鳳亀龍)
鍋屋肩衝御茶入 高二寸七分五厘、胴二寸六分強、口一寸六分挽、家黒塗、中次、袋白に花色小縞、紅毛木綿(裏花色茶、純子、緒つがり)、御物袋浅黄羽二重、箱黒塗錠前付、金粉書付(鍋屋肩衝 後つくまと改)、如此に有之、外箱春慶塗、包物浅黄丸紋花布、盃付圖の如く、本糸切少中上りに造る、土は浅黄の少し紫かゝりし土なり、地薬黒み申候、柿にて上薬共色の濃き薬にて、如圖置形有之、一體にむらくと上薬かゝる、茶の胡麻薬少し所々に飛有之、茶入圖あり。 (伏見屋筆記名物茶器圖)
鍋屋 漢なり、鶴首と同時代なり。 (不昧著瀬戸陶器濫觴)
傳來
鍋屋肩衝 天正の頃鍋屋所持す、後蒲生氏郷所持す、内藤家へ送る、其後冬木喜平次所持す、寛政の頃松平甲斐守様御所持、文化元年本屋惣吉御取次にて御買上に相成る、御代金千枚。 (雲州寶物傳來書)
鍋屋肩衝 本惣(本屋惣吉)、本了(本屋了我)四百五十両。 (大崎様御道具代御手控)
傳來
天正の頃、堺の町人鍋屋道加の所持せし者にして、後蒲生氏郷に傳はり、其孫忠知の時に至り、金子入用の事あり、此茶入を質物として信州松代の城主真田伊豆守信幸より金一萬両借用せり、然るに寛永十一年八月忠知歿して嗣無く、寶物一切徳川幕府に没収せられたる時、幕府は此茶入が質入されたる事を知らず、之を奥州岩代の城主内藤帯刀忠興に賜はりければ、真田家にては、内藤家に向って此茶入を引渡さんとせしに、同家は一萬両の質物たる此茶入を引取る事を好まず、其後猶ほ久しく真田伊豆守達直の家に在りしとなり、然るに櫟山一有筆記に、内藤左馬亮鍋屋肩衝を以て将軍家光に献茶の記事あり、左すれば爾後内藤家は彼の茶入を真田家より引取りしか、或は一時同家より借用せしか、其邊の詳細を知るに由なし、夫より神尾五兵衛、松平下野守、冬木喜平次を経て、寛政の頃郡山の城主松平甲斐守の所持となり、文化元年本屋惣吉、本屋了我両人の取次により、金四百五十両にて松平不昧公の購求する所となれり。
實見記
大正七年五月二十七日、松江市松平直亮伯家事務所に於て實見す。
口作拈り返し淺く他の同級茶入に比して口径二三分方廣きは此茶入の特徴なり、甑中程に一線を繞らし、甑際にも亦同じく一線あれども、是れは途中にて途切れたり、總體飴色釉の中に小さき柿色釉ヌケ四五點見え、甑廻りに黒焦釉ボツ/\と現はれたる所あり、胴を繞れる沈筋の一端、二段に喰違ひたる所あるは、頗る異様なり、裾以下鼠色の土を見せ、底磨りたる中に、細き糸切隠見して、二ケ所焦ヶ釉のヒツツキあり、大體飴色地釉濃暗なるが為め、其釉の景色引立たず、口大きくして稍品位に乏しけれども、胴筋の喰違ひなど特徴ありて面白き茶入なり。


