明治初期の九谷焼の功労者。
もと加賀藩士、馬廻組を勤め千五百石の俸禄を受けました。
1869年(明治二)金沢の古寺町(片町二丁目)にある自邸に錦窯を数基築き、内海吉造(松齢堂陶山)を工長とし任田徳次(旭山)・小寺藤兵衛(椿山)その他民山窯以来の陶画工および徒弟八十余名を従事させ、内外に販路を拡充しました。
製品は主に海外輸出を目的としたものであったといいます。
しかし製品は次第に巧妙となりましたが、他商の滑策に付け込まれたり、製器が破損したり、そのうえ商業の不熟練によって利益が得られず、負債ばかりか多額になってついに維持する方策がなくなり、1879年(明治二一)工場を閉鎖、工人も離散し、碧海は家財を合わせて負債を償いました。
しかし当時の着画工が業を維持して生活できたばかりか、後年金沢に着画窯が起こったのは碧海に負うところが多いようです。
碧海は事業に失敗したがなお陶磁への念を断つことができず、店舗を設けて陶磁器を並べ、考案を与えて新器をつくらせ、九谷焼の販路の拡張に専念し、1885年(同一八)農商務卿から功労表彰を受けました。
しかし1897年(同三〇)頃ついに九谷焼と別れ、晩年は不遇で石川県商品陳列所の一雇員として1910年(同四三)没しました。
六十九歳。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『九谷陶磁史』)