金継ぎを受け賜っています。お気軽にお問い合わせ下さい。

相馬焼 そうまやき

福島県相馬市中村および双葉郡浪江町大堀の陶器。
磐城焼ともいいます。
中村のは一名相馬駒焼といわれ、大堀のは大堀相馬焼と呼ぱれ、区別されています。
「相馬駒焼」初代は初め田代源吾右衛門といい、窯の起原は寛永年間(1624-44)といわれますが、1648年(慶安元)に磐城中村藩主相馬侯の命で上洛し。
御室窯の野々村仁清について陶法を学び、七年の修業を終えて帰藩するに当たり仁清から清の一字を贈られましたので、以後清治右衛門と改名。
帰藩後藩主の命により中村城下に開窯しましたが、これは御用窯の御止め焼で、明治以前迄私販を禁じられました。
仁清風の色絵で、角内に清の円印のある印銘の捺されたのは、初代の作であります。
1658年(万治元)没。
二代清治右衛門(1683、天和三年没)の時、藩主の特旨によって、狩野尚信が来城の節描いた雲雀原の走馬図を下絵とした駒絵を始めましたが、これが相馬駒焼の起こりであります。
この時代にはまた象嵌の手法も始まりました。
1867年(慶応三)十一代清治右衛門の時宮中から法橋号を拝領しましたので、のちには「田代法橋」の印銘も使っています。
明治以後も相継いで現代に及んでいますが、当代は十四代であります。
【大堀相馬焼】大堀村の半谷休閑が1690年(元禄三)頃に始めたもので、その起こりは、下僕の左馬に陶法を習わせましたが、やがて井手(浪江町井手)に良質の陶土を発見し試焼に成功しましたので、休閑が左馬から伝受して茶碗を焼き、藩主相馬侯に献上して嘉賞され、主命によって製陶を始めたのであります。
製法の伝習も初めは七名の村民だけに限り、これを七人衆と称して一子相伝・他見無用とされましたが、好評につれてこの禁制もいつしか弛んで十人衆・十五人衆と増加し、次第に近隣にも伝習する者が増えて、宝永年間(1704-11)には陶家が百余戸に及ぶ程の盛況を呈しましたので、ついに大堀に藩の陶器役所が設けられその振興に乗り出すようになりました。
製品は多く日用雑器で、藩内の需要と藩外への交易を主としました。
明治以後現在も陶業は続いていますが、世上に知られた作品は、特色とされる駒絵の青磁であります。

タイトルとURLをコピーしました