楽の脇窯玉水焼の初代、通称玉水弥兵衛。楽家四代一入の妾腹の子で、一入没後母と共にその郷里南山城の玉水(京都府綴喜郡井手町)に移り、楽焼を習って玉水楽を始めました。一元はのちの法名。稀代の妙手で、長次郎の「太郎坊」や「聖」を写した傑作があり、また光悦写しにも長じていました。時に楽印を使い、あるいは一元の彫り銘がありますが、多くは無銘なので紛れているものも少なくないようです。1722年(享保七)没、六十一歳。※たまみずやき