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大口面窯 たいこうめんよう

朝鮮全羅南道康津郡大口面の古窯。
従来高麗青磁の窯は不明でありましたが、1914年(大正三)旧李王家博物館の末松熊彦は偶然の機会にこの端緒を得、ついにその古窯址を大口面に発見し大規模に調査発掘して報告し、発掘品の一部を同館に陣列しました。
大口面は朝鮮の南端康津湾岸の僻地で、鼠走山・女鶏山・庭山・竜孤山・亀峰の諸山が連なり、その傾斜地に数十の窯跡があります。
大口面の字には尾山・堂前里・竜門里・巷洞などがあるようで、堂前里窯はその初期のものと思われ器も最も精美で、『宣和奉使高麗図経』にいう定器の制度に倣った破片が出土し、付近に象嵌手も出ました。
鼠走山窯も前者と同じく青磁だけを焼いた窯でありますが、形が粗大で品質も劣っています。
付近に象嵌手も出ました。
往時里窯と青竜里窯とは主として象嵌手でありました。
尾山窯は器は精美でないがその初期から高麗末期まで存在したらしいです。
そのほか大口面付近には数多くの窯跡があるようで、大口面を離れるに従って三島手の窯となり、無紋のものは色も細工も劣悪になるようであります。
高麗青磁はその前朝の陶技が漸次発達したものとは認め難く、突如としてこのような精美な磁器が出現したものであります。
そしてその陶技が次第に堕落としで三島手となりました。
大口面の地が南方中国への往時における最捷径であったこと、並びに『宣和奉使高麗図経』の高麗弱色青磁は越州古秘色・汝州新窯器とほぼ相類するとの記文から、中尾万三は大口面の陶窯は中国越州あるいは汝州の工匠が来て築いたものであるだろうと論じました。
この地は陶土・燃料が共に極めて豊富で、また僻地なので打ち続く政乱にも影響されず、長い間繁栄して一大陶器荘でありました。
その陶窯がことごとく滅び去ったのは李朝初期であるだろうといいます。
(『李王家博物館写真帳』『高麗古陶磁考』『大口面高麗古窯趾踏査記録』)

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