立杭焼 たちくいやき

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鶴田 純久の章 お話

兵庫県篠山市上立杭・下立杭の陶器。
丹波焼ともいわれます。
起原は鎌倉時代で、桃山以前のものを古丹波と呼び、寛永年中(1624-44)小堀遠州の好みにかかったものを遠州丹波といいます。
中世の窯は害窯で山腹にあるようで、成形は紐づくりで、無釉でありますが、時に自然釉が掛かっています。
慶長(1596-1615)末年から宝暦(1751-64)初めにかけて、釜屋に登窯が始まり(これを釜屋時代という)輔櫨づくりとなり、赤ドベ・灰ダラ・石黒・白釉などが使われ出しています。
立杭に窯が移っだのは宝暦以後で、後世に至って製品は丹波焼よりも立杭焼の名で通っています。
上立杭窯の祖長右衛門は農閑に壺・鉢・徳利の類をつくり「山長」の銘を付して売り広めましたが、その中でも撫脂製用の壺は特に世の賞賛を受け、京都・大阪その他の地方から注文を受けましたので、村内の工人がこれを贋造し「山長」と銘記するものも出るようになりました。
子孫が業統を伝えますます陶法を改良しました。
下立杭窯は正元某から始まり、原作の世に至って精巧をもって知られるようになりました。
その製品には壺・徳利があるようで、必ず「直作」の銘が刻してあります。
その徳利は酒類の腐敗を防ぎ、かつ酒を媛めるのにどんな大釜中に投じても沈没せず、一時に多くの酒を媛めることができるので大いに世に称されました。
他に「此作」「茂作」「一房」などの銘印のある徳利もあります。
以上両立杭の窯は現今も続いており、徳利・壺などの雑器をもっぱら製しています。
文化・文政(1804-30)頃笹山藩の用品を焼いて笹山焼(王地山焼)と称されたものも、立杭焼あるいは丹波焼と呼ばれます。
(『観古図説』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本陶器目録』『工芸』三九)※たんぱやき

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