宗教家。
大本教聖師。
1871年(明治四)8月22日、京都府亀岡に生まれました。
幼名喜三郎。
喜三郎をもじって鬼三郎と署名したことがあり、のちそこから王仁三郎と改名。
1899年(同三二)京都府綾部の出口なおを開祖とする大本教に入り、同教の確立と布教に努め、翌年には教祖なおの末女すみと結婚、ますます同教の発展に尽くしました。
1909年(同四二)2月雑誌『直霊軍』、1917年(大正六)1月大本機関誌『神霊界』を創刊。
1920年(同九)9月大正日々新聞社を経営。
しかし翌年2月大本事件(第一次)が起こり、10月に不敬罪として懲役五年を言い渡されました。
ただちに控訴しましたが、大本社殿取り毀し命令が下り、官憲の手によって破壊されました。
1923年(同一二)中国道院・世界紅印字会と提携合同。
翌年2月ひそかに数名の同志と共に蒙古に向X″カい、奉天で馬賊の頭目虚占魁と会い張作霖の了解のもと蒙古遠征の軍を進めました。
それが蒙古独立に移行したため張作霖は激怒して掃討を命じ、王仁三郎は危なく救われて、官憲に護送されて帰国しました。
1925年(同一四)世界宗教連合会を創設し、北京において発会式を挙行、次いで人類愛善会を設立、「人類愛善新聞」「瑞祥新聞」エスペラント誌『オオモト』(のち『国際大本』と改題)文芸誌『明光』などを、続々と刊行または企画しました。
また歌壇に進出し、八十有余の結社に加入して数ヵ月間に歌集数冊を発行しました。
1934年(同九)昭和神聖会を創立して全国に遊説。
翌年12月第二次大本事件が起こり、再び不敬罪に問われました。
保釈後の1944年(同一九)から楽茶碗の製作を始め、三年間でその数は三千個を越えました。
王仁三郎はその生涯を通じて、エネルギッシュな宗教活動と並行して芸術運動を続けましたが、最後の三年間は楽焼茶碗の製作に終始し、1947年(同二二)8月27日、七十六歳で没しました。
彼が遺した楽茶碗は耀扱と呼ばれます。
詳細については「耀隻」の項を参照。