備前とは其の弐 茶の関わり

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鶴田 純久
備前 矢筈口 耳付 水指 010

 備前、丹波、伊賀、信楽のなかで、最も早く茶の世界に登場するのは信楽と備前で、村田珠光が語った言葉や残した消息のなかに「伊勢物 ひぜん物(備前物)なりとも 面白くたくみ候はば まさり候べく候」(『申楽談儀』)、「または当時ひえかるると申じて 初心の人体が備前信楽物を持て 云々」(古市播磨宛消息)とあり、備前や信楽ものが、珠光が活躍した文明年間から文亀頃にかけて使われていたことがうかがわれます。珠光が用いた作品がどのようなものであったかは判然としませんが、「山科言教卿記」の応永十三年(1406)四月八日の記載のなかに「備前茶壷」とありますので、茶壷はすでに焼かれていたことがうかがわれ、他に雑具として生まれた壷や擂鉢、または苧桶が用いられるようになったものと推測されています。
 侘茶の茶道具とはいえないかもしれませんが、茶の湯に関係のある器として最も早くから焼かれたのは茶壷で、備前焼に貞治二年(1363)の年紀を刻した壷があり、前述の『山科言教卿記』の記述、さらに『桂川地蔵記』の弘治四年(1558)に「香々登(備前の古い呼称)信楽瀬戸壷には 伊賀 大和 松本 粟津の木前 簸等を入れる」と記されていることが、その間の消息を物語っています。また、『津田宗達茶湯日記』には、天文十八年十二月十二日の宗理会に「一、水さし 水こほし ひせん物」とあり、さらに紹鴎所持の「備前水指 青海」(第36図)が現存し、天正十六年記述のr山上宗二記』に「紹鴎備前筒」、「紹鴎備前物ノ面桶」と紹扁所持の備前物が記されていますので、天文年間以後侘道具としてかなり用いられていたことは確かです。しかも、「備前水指 青海」など天文以後の茶具は、その口作りや器形などから推して、純然たる茶道具として作られたもののように思われます。したがって、侘茶が堺衆など町衆茶人の間で大いに高まりつつあった天文年間頃には、すでに茶陶が焼かれていたと考えられるのです。しかし、一方では雑具をとりあげることも当然行なわれていたでしょう。

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