苗代川焼 なえしろがわやき

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鶴田 純久の章 お話

鹿児島県日置市東市来町苗代川にあります。
【沿革概要】当初串木野焼に従事した朝鮮陶工により1606-7年(慶長一一-二)頃創起されたもので、その中心人物は朴平意でありました。
平意は製陶にだけ、特に藩主島津義弘の寵を受けて清右衛門の名を与えられ、初代苗代川の庄屋を命じられました。
また当時沈当吉という良工がいましたが、義弘は彼らのような帰化陶工を非常に厚遇したのでその子孫は安心して業を営むことができました。
延享・寛延・宝暦(1744-64)にわたる約二十年間一時休業しましたものの、重豪が家督を継ぐと1761年(宝暦一一)再び製陶の復活を命じました。
そして明和(1764-72)より寛政(1789-1801)に至る約四十年間は薩摩焼の全盛期で、1794年(寛政六)竪野窯ではついに錦欄手を製出するに至りました。
苗代川窯においても朴正官は藩庁に錦手伝授方を申上し、1827年(文政一〇)錦手部の設置となりました。
1867年(慶応三)パリ万国博覧会開催の際朴正官は精巧な錦手大花瓶を出品し好評を博しました。
なお錦手方とは別に1857年(安政四)藩主斉彬によって苗代川窯平(俗称南京山)に磁器工場が設けられ、沈寿官がこの取締役に命じられました。
しかし1871年(明治四)廃藩となって藩庁の支配は中止され間もなく県庁の配下に属し、次いで陶器会社の設立があり藩設工場はすべて会社の所有に帰しました。
1877年(同一〇)西南の役の兵乱にあって陶器会社は瓦解しました。
ここにおいて全村の陶工はたちまち生計の道を失い廃窯の危機に直面しました。
沈寿官は奮然としてこの回復を図り同村藤尾に新窯を設け再び隆盛さ司せた日清戦争後貿易の振興に従つて苗代川製品も大いに輸出されましたが、次第に粗製に傾き玉光山陶工場も解散せざるを得なくなりました。
日露戦争後は名工がなく良経営者も現れず、次第に衰退しました。
1965(昭和四〇)年度の年間生産額は四千万円、メーカー数十一。
「製品」当初は黒物をつくっていましたが、白陶原料を発見してからは自由に白物を出すようになり、奨励のために義弘の御判手などのこともありました。
朴平意は朝鮮伝来の刷毛目・三島手・宋胡録などを得意としましたが、朴正官の頃は錦手が最も多かりました。
しかし苗代川焼は民窯だったので白物を禁じられ、朴平意・朴正官以外は主として黒物の日用雑具を生産しました。
弘化(1844-8)以降は姜早丹・姜慶丹・玉峰林などが名手といわれました。
なお沈寿官に始まった磁器は、コーヒー茶碗・洋食器などの輸出品および皿類・茶碗などをつくりました。
(『薩摩焼総鑑』)

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