古来わが国で最も多く使用された窯式で、傾斜面に長方形の数室を、前室を低く後室を高く次第に登って行くように築窯します。
最前端の小室は焚き口、その次を胴木間、次いで捨間といい、ここは焚き口で燃焼したガスを一層よく燃焼させる室で、次の室より品物を入れて焼成します。
第一室を焼成したガスは第二室・第三室と次々に上部の数室を予熱し、最後の室より外に出ます。
傾斜面に築かれているので各室は自然に煙突の作用をし通風をよくします。
各室を通過する火焔は窯室の下端より出て上部天井に添って後部に廻りその下部から次の室に入る。
すなわち倒焔式であります。
第一室を焼成するには相当の時間と燃料を必要としますが、第二室以後はあらかじめ熱されているので次第に燃料を減らし時間を短縮し、半ば連続的に焼成することができます。
燃料は薪を使用し、最初は焚き口に入れ、のちには各室の両側に設けた差木孔より投入します。
わずか直径16.7cmの孔から薪を投げ入れ、長い室の中央部から両端に順序よく並べていく技巧は熟練を要します。
大きな登窯には十数室連ねたものがありますが、この場合窯全体の容量が非常に大きいので多数の製造家が相寄って一窯を焼成する地方が少なくないようです。
明治維新前は窯株制限その他のため登窯はいよいよ長入になる傾向かありましたが、明治以後は経済事情も活発になり、大連室の焼成は不自由なのでその連室数は減少してきました。
しかし窯室の大きさは明治以後著しく膨脹しました。
登窯以前の窯は窖窯で、登窯は江戸時代初期に肥前唐津より尾張・美濃(愛知・岐阜県)地方に伝わり、旧来の窖窯を大窯と呼び、新来の登窯を窯室一室の大きさが小さいことから小窯と呼んです。
それより全国各地方に伝わり京窯・丸窯・古窯・本業窯・会津窯などの分派を生んです。
かつて瀬戸の陶祖藤四郎が中国徳化(福建省)の登窯を伝えたとの説が削えられましたが、同地方の伝説ならびに窯跡調介の結果によりますと、登窯は慶長(1596-1615)から寛永(1624-44)の頃唐津より伝来したものらしいです。