百曲焼 ひゃっきょくやき

marusankakusikaku
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鶴田 純久の章 お話

尾張藩士安藤勝助は百曲園と号した風流人で、陶法を楽家九代了入に学び、天保年間(1830-44)萩喜・鉄翁らと共に岐阜郊外の金華山麓人土場老桜のもとに御山焼を始めました。
天明年間(1781-9)に黒田六市郎が開いたあとを継続したのであるでしょう。
そのうち百曲の楽焼が最もすぐれ、京都の楽焼本窯の作をしのぐと評され、世に百曲焼と称されました。
1865年(慶応元)11月没、七十七歳。
(『岐阜県産業史』『日本陶甕史』)

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