桃山期の茶人、有楽流の祖。
1547年(天文一六)生まれ。
本名長益、通称源吾、有楽また如庵と号しました。
織田信長の末弟であります。
兄の横死後秀吉に属し御伽衆として摂津国(大阪府・兵庫県)内で二千石を知行し、関ヶ原役には東軍に付いて家康から摂津国・大和国(奈良県)の内に三万石を与えられました。
のち秀頼の生母淀君の後見人として大阪城に入りましたが、1614年(慶長一九)冬の陣が起こると退いて京都東山に隠退し茶事三昧。
の余生を送りました。
有楽は茶を利休に学び、その台子七人衆の別格に位置したともいわれます。
1617年(元和三)建仁寺の塔頭正伝院の再興に着手し、その好みによる茶室如庵をつくりました。
世にこれを暦の席といい、また筋違いの席ともいわれました。
明治末年三井家に移り、最近さらに愛知県の明治村に移築されました。
なお長四畳の茶席は有楽の創意であります。
残月肩衝・寺酉肩衝・万代屋肩衝・高麗井戸茶碗・張成内赤盆・一休墨蹟などを所持しました。
太中川為範の『喫茶織有伝』は有楽の茶法を伝えるものであります。
1621年(元和七)12月13日没、七十五歳。
なお織田道八頼長はその子で、三郎長好は孫に当たり有楽の流れを継ぎましたが、長好の弟子織田貞置(1704、宝永元年没)に至って貞置流なる一派が開かれました。