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鶴田 純久の章 お話

回教地方から中国の明朝に渡来した呉須青料で、ペルシア人あるいはアラビア人などが陸路および海路より盛んにもたらしました。
その年代と通路とによってそれらの名称および性質に区別があります。
磁器においては青料模様の上に施釉するので釉裏青あるいは青花白磁と呼ばれます。
すなわちわが国でいう南京染付であります。
明朝宣徳年代(1426丿三五)にはもっぱら蘇泥勃青というものが賞用され、成化年代(1465-87)からその後の嘉靖・万暦(1522-1620)にかけては通じて回青が利用されました。
中国の鑑賞家は「宣青は淡きを尚ぶ」とか「成青は宣青にしかず」とか「嘉青は濃きを尚ぶ」とか、あるいは「嘉万の回青は幽青なり」などと説いています。
しかし蘇泥勃青は普通にはスマトラの泥とボルネオの青であると説かれ、アラビア人がバルチスタン産のコバルト青料をペルシアからインドネシアのスマトラ地方に持って来て、それを中国人に売り渡したものであり、天山北路の方からペルシアの駱駝隊がもたらした回青と同一物であるといいます。
回青の中には、インドにおいて仏像の頭に塗る最上の紺青である仏頭青というものがありました。
宣徳年代には、中国産のコバルト料も採用されるようになり、石青子あるいは画焼青などと称されました。
後世は主として雲南産の青料が用いられ、古くわが国の磁器のために輸入された唐呉須もやはりこの種のものと思われます。
なお近年中央アジアの研究が進むに従って、唐時代に回青が中国に渡っていたことが明らかとなりました。
『天工開物』『陶説』『景徳鎮陶録』『陶雅』『呉須考』『支那陶磁源流図考』

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