加藤唐左衛門 かとうとうざえもん

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鶴田 純久の章 お話

尾張瀬戸の陶家。
代々唐左衛門を襲名。
家祖清助景房は陶祖景正の孫(一説に陶祖景正第十九世宇平次景澄の次男とある)。
加藤某の分家。
二世唐左衛門景盛、三世藤左衛門景房、四世唐左衛門高景。
唐左衛門高景は1772年(安永元)瀬戸村に生まれ、初め安左衛門と称し秋慶と号しました。
庄屋および窯取締役を兼ね、すこぶる識見がありました。
当時瀬戸の陶業はとりわけ衰退していた時期でしたので、藩庁は諸種の保護救済策を試みました。
すなわち1801年(享和元)乱売防止の趣意で瀬戸に「御蔵会所」を置いました。
時に唐左衛門は、窯業衰微の原因は生産過多ではなく販路の閉塞にありますので、資力・経験のある者を起用してこれに専売権を付与すべきであるといい、藩庁がこの献策を容れて初めて「蔵元」の制度が確立したのでありました。
また加藤吉左衛門・民吉父子らが、熱田奉行津金文左衛門の後援によって染め付け磁器創製のことを企て窯を熱田(名古屋市)に築きますと、唐左衛門は瀬戸窯業者の将来を考え奉行津金文左衛門および代官水野権平らの間を陳情し、1802年(享和二)ついに瀬戸村において開窯の藩許を得ました。
そして自らも磁業に転じ染め付け焼取締役を命じられました。
のちその磁法の進歩が意のごとくにならないため吉左衛門らと議し、1804年(同四)2月民吉を九州に行かせました。
1807年(文化四)民吉が磁法に成功して帰りますと、藩は唐左衛門の功を賞して永世苗字帯刀を許し、かつ三人扶持を賜りました。
1832年(天保三)没。
晩年は種種の茶器を製したが多くは志野焼でありました。
その器には所掲の款があります。
(『日本近世窯業ぞ』『をはりの花』『新編瀬戸窯系統譜』『茶わん』三四)

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