尾張国愛知郡川名村(名古屋市昭和区川名町)に産したものです。
文政(1818-30)の頃壕仙堂川本治兵衛の門弟加藤新七がこの地に来て青花磁器の製造を始めましたが、瀬戸人の拒むところとなり、ついに銅版貼付絵を採用する条件で着手しました。
そして磁器以外に璧焼も出しました。
これが瀬戸薩摩の発端であります。
のちしばらく中絶していたが、1862年(文久二)寺尾市四郎がここに帰来し再興しました。
また赤津(瀬戸市赤津町)の加藤仁兵衛春岱も同じく銅版磁器を試みたといいます。
世に銅版焼・五朗焼の別名があります。
(『瀬戸陶業史』『日本近世窯業史』)