【文献上の考察】『倭名類聚抄』に「蒋紡の切韻に云ふ、瓦は五寡の反と。
和名加波良。
泥を焼いてつくり、屋宇の上を蓋ふ。
蓬莱子の造るところなり」とあります。
カハラは梵語の転誂だともいうがどうでしょうか。
その伝来からみるとおそらく当時の朝鮮語から転じたものであるでしょう。
わか国における瓦の製造は、五八八年(崇峻天皇の元年)百済の瓦博士麻奈文奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帝弥の来朝に始まっています。
彼らが寺工らと同行してきたことからも、また当時の鐙瓦の蓮花文が示してもいるように、仏教伝来後のその隆盛に伴う造り寺の必須材料に始まって、百済の技術を摂取したものなのであります。
その後ますます造り寺の風が盛んになるにつれ、新羅の製瓦技術をも入れて瓦製造の興隆をもたらし、単に仏寺に用いられるだけでなく、645年(皇極天皇の四年)には大極殿に、文武天皇の701年(大宝元)には官舎に使われ、聖武天皇の724年(神亀元)には、五位以上および庶人のうち生計に差しさわりない者には屋根瓦を葺かせ丹を塗らせるという発詔をみるまでになりました。
次いで741年(天平一三)国分寺・国分尼寺の建立に至って、瓦の製造が全国にわたって広く起こりました。
当時の瓦様式は厄瓦(平瓦)・筒瓦(丸瓦)・鐙瓦(巴瓦)からなり、平瓦二枚の葺き合わせに丸瓦を伏せ、その葺端は巴瓦でし、屋根の両端には参心を置いたがそれは玉虫厨子にみられる通りでありました。
その後宇瓦(唐草瓦)を平瓦の葺端に用いることか行われ、まれに鳴尾の風を廃して後世の鬼瓦に当たるものを用いました。
『延喜式』によると埴一一斤(六・六キロッ大斤で一斤は600グラムに当たる)で厄瓦一枚をつくることを記し、また九斤(五・四キロ)で筒瓦、一八斤(一〇・八キロ)で宇瓦。
一五斤(九キロ)で鐙瓦それぞれ一枚をつくる料に当てています。
これによりその大きさが推察できます。
なお埴に混ぜる砂の量、焼成燃料である薪の瓦一千枚当たりの所要量などを記しているのは、当時における製瓦技術の確立を示すものというべきであるでしょう。
瓦博士の来朝以降この頃までの瓦はいずれもその質は堅硬で青灰色を示し、また成形上商布を用いたので布目の痕跡を存し、花文においては変遷があるか窯業技術の上では大差なく布目瓦の名で一括されるもので、称徳天皇の767年(神護三)東院王宮に用いた瑠璃瓦、桓武天皇の794年(延暦一三)大極殿に用いた碧瓦は異例に属すべきものであります。
その後檜皮葺の流行となり、後一条天皇のI〇三〇年(長元三)には六位以下が檜皮葺の屋根をつくるのを禁じt発令があったりしましたが、この世潮のI変に加え政治的騒擾・経済的逼迫が相次ぎ、瓦の需要が激減するに及んで製瓦技術は伝承を失い、たまに製造されるものも劣質なものとなりました。
このように約五百年間にわたり瓦製造は衰退期にありましたが、1576年(天正四)織田信長が安土築城に際し中国の瓦工一観に明様の瓦をつくらせたことから、布目瓦と異なる新しい製瓦技術が起こり、近世における煉瓦のはじめとなりました。
1586年(天正一四)豊臣秀吉が京都大仏殿造営の時に当たって山中山城守を奉行として製造させた瓦(大仏瓦のはじめ)、1592年(文禄元)蒲生氏郷が会津若松築城の際に播磨(兵庫県)の石川文左衛門を招いてつくらせた瓦などはこれであります。
江戸においては1601年(慶長六)滝山某が瓦を葺いたと伝えるか、『武江年表』には1645年江戸において寺島某らが初めて瓦を焼いた由を記しているので、一般の瓦葺が行なわれた初めはこの頃であるでしょう。
ところが明暦大火直後の1657年(明暦三)に「瓦葺きの家屋は、向後、国持ちの大名たりと雖も、これを停止せらるべき」という令が出て、一時瓦の普及を妨げるものかありました。
しかし1674年(延宝二)西村半兵衛が軽少な桟瓦を創案し、またこの禁令も次第に緩んで瓦葺も行われていったようで、ついに享保大火後の1720年(享保五)には「出火之節防にも成り云々」の理由で「瓦葺きは勝手次第たるべし」という発令をみました。
この後瓦は防火建材としての存在を確立し、1723年(享保八)より1746年(延享三)に至る間数回の発令によって瓦を葺くことが強制され、その製造も次第に盛んとなり、地方においてもこれにならって明治維新に及んです。
1871年(明治四)工部省の営繕課によって引掛桟瓦が創製され、また明治前期に続出した欧風建築にはフランス瓦が盛んに行なわれた、いずれも一般化するには至りませんでした。
明治後期に至り島根県石見地方で耐凍寒を目的とする施釉瓦(文化年間、1804-一八年に始まる)の製造が盛んとなり、次いで山陰地方一帯、北陸地方に及んです。
その焼成は登窯により、初め甕類に用いる赤褐色釉を用いたので赤瓦の名で呼ばれましたが、大正末期よりは黒釉の使用が次第に盛んとなりました。
明治末期より愛知県地方で圧搾製瓦機・土練機などの使用が起こり、大正末期には荒地抜出機が出現し、この頃からようやく全国にわたり製瓦の機械化の普及をみるに至りました。
また明治前期に始まったフランス瓦はその後久しく行なわれませんでしたが、1917年(大正六)日本洋瓦会社できるともっぱらこれを製出して緑色などの施釉物までっくり、1926年(同一五)には食塩釉を創始してこの種の瓦の唱矢となりました。
これより先1923年(同一二)の関東大震災の結果に鑑みて、市街地建築物の瓦は引掛桟瓦を原則とするようになりました。
瓦の生産額は日清・日露戦争後の好況期を経て次第に額を増し、明治末年には一千二百万円に達しました。
次いで第一次世界大戦時の好況期にはさらに需要か激増し、1924年には四千八百万円の新記録を示しましたが、昭和期に入って激減し1930年(昭和五)には二千二百万円に過ぎませんでした。
この瓦生産額の大部分を占めるものは煉瓦で、これに関しては1927年(同二)日本標準規格第三十号をもってその規格の公布をみました。
遠州瓦・三州瓦・尾州瓦・美濃瓦・西京瓦・泉州瓦・淡路瓦・出雲瓦・菊間瓦(愛媛)・福岡瓦などは煉瓦の著名なもので、石見瓦・因幡瓦・能登瓦は施釉瓦として知られます。
(『日本製瓦大観』『日本窯業大観』)