輝県古墓 きけんこぼ

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鶴田 純久の章 お話

1928年頃より中国河南省輝県から主として戦国時代の遺物が盗掘によって現れ、特に一群の黒陶俑か注目をあびました。
1935年以来数次の発掘が行われましたが、解放後の1950年から五二年にかけ三次の学術調査が行われ、これによって輝県古墓の全貌か明らかとなりましました。
調査されたのは輝県県城東北の琉璃閣と固囲村、西南約9~10キロの趙固鎮と椿丘村、それに北方約一・三キロの百泉村の五ヵ所であります。
このうち琉璃閣と椿丘村の一部に殷代、また琉璃閣と椿丘村の一部に前漢末の墓葬、百泉村に後漢の碍室墓があったほかはすべて戦国期の古墓であります。
琉璃閣では東西約600メートル、南北約四六〇メートルの範囲から二十七基の戦国墓が調査されましたが、特に一九両の馬車と馬を納めた車馬坑が発見され、戦国時代の馬車の構造が細部に至るまで明らかとなりましました。
固囲村では戦国時代の三基の大墓が東西に併列し、その西に二基の小墓がありましました。
ことに中央の大墓は墓坑の周囲に石敷が巡らされ、墓坑上に礎石を持ち瓦葺の堂宇の跡がありましました。
墓室はすでに盗掘にあっていましたが、深さ一五~17メートルに営まれ、木槨をつくり木棺と数々の豪華な副葬品を納め、上を版築して覆っていましました。
趙固鎮では七基の戦国墓が調査されたか、第一号墓は他に比べて大きく遺物を多く存し、特に画像文鑑や錯金の車馬飾具などの注目すべき遺物を出しました。
椿丘村の戦国墓ぱ十五基あるようで、墓室はすべて長さ二・三メートル、幅二メートル未満の長方形竪穴式であります。
副葬品は大部分が鼎・豆・壺と盤・碗などの組み合わせの土器で、やや大きい二、三号墓に銅器・玉類が副葬されるのみでありましました。
輝県出土の土器は銅器の形を写したと思われる黒色または深灰色土器が多く、鼎・豆・壺の一定の組み合わせを持つほか、朱・黄・黒の三色で器の表面に彩絵したものなどがあります。
輝県といえばすぐ思い出される黒陶俑そのものは発見されなかったか、琉璃閣一四〇号墓発見の泥俑残片はその表現において同類のものと思われます。

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