漢作 大名物 侯爵 德川 賴倫氏藏
名稱
一名本多大隅肩衝といふ、本多大隅守の所持せし茶入なるを以てなり。
藩翰譜に「本多大隅守忠純は佐渡守正信の三男にて、將軍家に仕へ、大阪の合戦に天王寺より押寄せ、首二百十七切て獻る、其勤賞として所領の地、即ち下總榎本、上野皆川、合せて二萬八千石を賜ふ、幾程なくて計らざるほかの禍に罹りて家絶えぬ」とあり。
寸法
高 貳寸九分弱
胸徑 貳寸五分半
口徑 壹寸四分六厘
底徑 壹寸参分
甑高 貳分五厘
肩幅 四分五厘
重量 貳拾八匁六分
附屬物
一蓋 一枚 窠
一御物袋 白縮緬 緒つがり白
一袋 二つ
青海波雲鶴純子 裏玉虫 緒つがり紫
淺黃地丸雲龍紋純子 裏玉虫 緒つがり紫
一袋箱 黑魂 金粉字形
大隅肩衝
袋
一挽家 花棡 蓋に 金粉宇形
大隅肩街 袋 唐織 裏茶地純子 緒つがり紫
一內箱 桐 白木
大隅肩衝
一外箱 黑塗 金粉字形
大隅肩街
雑記
本多大隅肩衝 井伊掃部頭。 (古名物記)
本多大隅肩衝 唐物 井伊掃部頭。 (玩貨名物記)
本多大隅肩衝 唐物 大名物 井伊滞部頭。 (古今名物類聚及び鱗凰龜龍)
寬永十二亥年八月二十日二之丸於山里井伊掃部殿御茶御上ゲ。御相伴、松平越中守殿、松平筑前守殿、毛利甲斐守殿、立花飛騨守殿。
數寄道具
一掛物 癡絶
一花生 金物
一茶入 大隅肩衝
一茶碗 膳所燒
(木全本山本道句覺書)
寛永十六年十二月五日井伊掃部頭殿下屋敷へ被爲成、御茶御上ゲ.
山之數寄屋
道具
一掛物 癡絶
一茶入 大隅肩街
一茶碗 新
一花入 金中かぶら
(木全本山本道句覺書)
井伊直澄 玄蕃頭 掃部頭 寛文二年彦根に生る。萬治二年七月二十六日襲封を謝するの時父掃部頭直孝が遺物前田正宗の刀、大隅肩衝の茶入、癡絶が墨路を獻す。 (寛政重修諸家譜)
萬治三年子三月九日晝 常番 道壽
御掛物 恩斷江自如兩筆
御茶入 大隅肩衝
御花入 青磁蕪なし
御前被遊候手前は内藤出雲守へ被仰付候、酒井讃岐守御相伴。 (徳川家御茶會記)
寬文五年巳十二月十六日 當番 宗有
於御園御花御手前被遊候。保科肥後守、酒井雅樂頭、阿部豊後守へ御茶被下候。御料理西湖之間にて肥後守に被下候。
御掛物 印月江
御茶入 大隅肩衝
御花入 大そろり 御花赤椿白玉
御茶碗 刷毛日
(徳川家御茶會記)
寛文五年十二月十五日、御奉書到来にて、十六日御登城被遊候、九ッ半時於黑書院中將様(保科正之)御一人へ御料理出で、公方様御手前にて御茶被進候。御一客の御茶湯と申し、御當代大臣諸大名衆へ御茶被下の初、千秋高歲目出度御儀被思召、兼ねて御服不自由被成御座候、御園にて少しも御けが無之、首尾能御仕廻、彌満悅被思召候。此時御園の道具は、松月翁の墨蹟、大隅肩衝 井伊掃部頭より被差上候由、御茶碗刷毛目 土井大炊頭殿より被差上候由、御花入古銅大そろり 御花白梅赤玉椿、いづれも名物を御揃被成候由に候。 (文政十一年會津藩大河原長八編千とせの松)
寛文八年十月廿五日 當番 宗貞
於奧御園御花御手前被遊候。板倉内膳正一人へ御茶被下、御料理御座之間御之間にて、御納戸衆へ被下候、但内膳正、京都へ御暇被下候、其上御茶被下候。
御掛物 定家七首
御茶入 大隅肩衝
御花入 青磁蕉無 御花菊
御茶碗 三島はけめ
(德川家御茶會記)
寬文十年塊二月十五日 當番 宗貞
於御黒書院紀伊大納言殿へ御料理下候、井伊掃部頭御挨拶以後、表御圖に於て御茶被下候、御花御手前被遊、御園にても井伊掃部頭御挨拶、御茶湯終て於御座之間御暇被下候。
鋼掛物 圜悟
御茶入 大隅肩衝
御花入 大會呂利
御茶碗 三島
(德川家御茶會記)
寬文十年三月廿五日 當番 立甫
黒書院西湖之間にて尾張中納言殿へ御料理被下候。井伊掃部頭御挨拶以後於表御圖御茶被下候、御花御手前遊され候、御国にても井伊掃部頭御挨拶、御茶湯清て於御座之間御暇.
御掛物 圜悟
御茶入 大隅肩衝
御花入 大そろり
脚本碗 三島はけめ
(德川家御茶會記)
延寶四年七月二十三日
於奥御圓風呂の御茶湯、御花御手前被遊侯、戶田越前守一人へ御茶被下候、御料理琴碁書畫之間にて被下、但京都への御暇被下候。
御掛物 定家 筑波根
御茶入 伯耆肩衝
御花入 大そろり
替之御道具
御茶入 大隅肩衝
御茶碗 利休井戶
(德川家御茶會記)
延寶五年三月二十六日
御黒書院西湖の間に於て、紀伊中納言殿へ御料理被進候、酒井雅樂頭御老中御挨拶以後、於御園御花御手前御前被爲遊、御園にても雅樂頭御老中御挨拶挙て、於御座之間御殿以後、御黒書院に出御紀伊殿家來御目見。
御掛物 圜悟
御茶入 大隅肩衝
御茶碗 三島有樂 樂田豐前守上
御花入 青磁磁 御花 長崎紫留白牡丹
替の御道具
御茶入 師匠坊
御茶碗 明星
(德川家御茶會記)
延賓六年午二月二十六日
御黒書院西湖之間にて、尾張殿へ御料理被進侯、酒井雅樂頭御老中御挨拶以後於国御花御手前被爲御前御国にて大隅肩衝拜見の節、則御茶入御茶共に被進候、御頂戴被成候、雅樂頭御老中御挨拶終て、於御座之間以後、御黒書院に出御、尾張殿家來御目見。
御掛物 印月江
御茶入 大隅肩衝
御花入 大そろり 御花 杜若一輪一葉
御茶碗 利休井戸
替之御道具
御茶入 玉堂
御茶碗 割高臺
(德川家御茶會記)
延寶六年二月二十六日 家綱樣 尾張中納言殿御茶湯
御圍飾
一御掛物 月江正印
一御茶入 大隅肩衝
一御花入 大そろり
一御茶碗 利休井戸
右大隅肩衝御手づから被進之。
(櫻山一有筆記)
元祿十一年戊寅三月十八日尾張中納言へ御成、御內設にて般雪肩衝(繁雪肩衝ノ誤ナリ)御茶入中納言殿へ被進候。中納言へ御成御内證にて御茶入大隅肩衝獻上。
(戸田茂睡著御當代記)
網吉公遺物 紀伊中納言殿へ
御脇差 貞宗 代金二百枚
御茶入 大隅肩衝
御使 土屋相模守
(天野信景著鹽尻)
傳來
元本多大隅守忠純の所持なりしが其家絶せしを以て幕府の物となり、井伊掃部頭直孝之を拝領せり。寛永十二年同十六年井伊掃部頭此茶入を以て将軍家光をせしこと、前揭山本道句覺書に見ゆ。直孝の子直澄萬治二年七月二十六日醬封御禮の爲め、父の遺物として之を幕府に獻ず。而して此茶入が萬治三年、寛文五年、八年十年、延寶四年、五年、將軍家の茶會に使用せられたること、前掲徳川家茶會之記に見ゆ。延寶六年二月二十六日將軍家綱吉茶事の後、之を尾張中納言に賜ひしが、元祿十一年三月十八日將軍綱吉尾張藩邸に臨み、御内證にて繁雪肩衝を賜ひたる禮答として、尾張中納言より御内證にて此茶入を獻じ、寶永六年綱吉公遺物として之を紀州家に賜ひ爾来傳へて今日に及べり。
實見記
大正八年十月九日、東京市麻布區飯倉町徳川頼倫侯邸に於て實見す。
口作枯り返し深く甑低く肩ムックリと衝き、總體紫地釉に黒飴釉掛り、置形肩先より 飴釉流の如く流れ掛り、裾土中に至りて止まり、其藥留に少しく青瑠璃色を現はす、胴を繞れる沈筋一部に於て途切れたる所あり黒釉中に紫釉斑を成し、肩廻り飴釉一段濃く掛り、裾以下白鼠土に底面に石ハゼ若くは窪みあり、土ネットリとして白粉を溶きたるが如く、絲切細くして見え隠れつ稍不鮮明なり、内部甑廻り釉掛り、夫れより以下澁色釉カセ轆轤一面に繞る、手取極めて軽く景色多く其比類を求むれば、北野肩衝最も能く相似たり。