京都の窯家和気亀亭、通称亀屋平吉。
伊予国(愛媛県)大洲の旧臣とも備前国(岡山県)の人ともいいます。
1748年(寛延元)京都五条坂上の音羽町(東山区)に開窯し、別に同坂の南側に職場を設け土瓶・土鍋・花生などの雑器を製造しました。
のち播磨国(兵庫県)姫路の北17、8キロの地から亀坪石を採り、これに信楽土を和して初めて白磁を出しました。
この亀坪石には強弱の両種があるようで、強いのを坏に弱いのを釉に用いましました。
弱いものには白釉・青釉の区別があるようで、青釉を掛けたものはやや淡青色でありますが、その染め付けは地釉に淡黄味を帯び純白にはならなかりました。
二代亀亭が志を継いで染め付けの改良を企て門弟宮田熊吉(亀熊)を有田に遣わし、1806年(文化三)帰国してその法に成功しました。
その後子孫が業を受けて明治年中五代に及んです。
ただし別説には、その磁器の製造がなされた時期を三代の頃とし、したがって亀熊西下の年代にも諸説があります。
(『観古図説』『写本日本陶工伝』『陶器類集』『日本陶器目録』『大成陶誌』『日本陶甕史』)