京都市東山区清水の五条坂近傍より産出の陶磁器。起原は古いといわれますが、陶業が盛んになったのは寛永(1624-44)頃野々村仁清かこの地に窯を開いたことに源を発し、今日のような磁器は文化(1804-18)頃有田焼に倣って製出したことから始まります。製品は茶器・盃・皿・鉢・碗・花瓶・香炉などみな清雅優美なものとして賞美されています。
原料は以前は信楽土・三雲土・天草石・イス灰などを用いていましたが、近頃は蛙目上・長石・珪石・石灰石などを用いるようになりました。
器物の成形は手轆轤・石膏型が並行し、窯は登窯・素焼窯・錦窯などがあります。
登窯はいわゆる京窯と称するもので有田・瀬戸の窯に比べてはるかに小さいです。【沿革】粟田陶器と等しくその詳細な事実に至ってはわかりませんが、陶工の口碑に伝わっているものから由来を尋ねてみますと、遠く天平(729-49)の昔に起因し、当時僧の行基が聖武天皇の勅を奉じて愛宕郡清閑寺村茶碗坂(東山区清閑寺)において土器を製したことがそのはじめだといいます。
同地には今なおその古跡があります。
桓武天皇の延暦年中(782-806)洛北鷹ヶ峰に瓦工がいて、この地において平安城の碧瓦をつくっていましました。
次いで鳥羽天皇の元暦年間(1184-5)に至り洛南深草の地に窯を移しもっぱら器物を製しました。
しかしその製品は粗く釉薬もなく俗にいう締焼の類でありました。
降って正安年中(1299-1302)伏見天皇の時に南禅寺の僧に経正という者がいて製陶の法に詳しく、たまたま深草の瓦工にその製法を授けました。
これより同地の瓦工はその方法によってたびたび陶器を製しました。
しかしなお火力強度の法がはっきりしないためどれも陶器を成さなかりました。
後花園天皇の宝徳年間(1449-52)愛宕郡清閑寺村に音羽屋九郎右衛門という者がいて、清閑寺村茶碗坂の遺跡を発見しここに深草の窯を移し、陶器を製しました。
その製品は堅良ではないがほぽ完全なものに近かりました。
彼は深草製の古法により改良に苦心し、ついに釉軍のことを発見しました。
天正から慶長年間(1573I1615)に至り正意・万右衛門・宗伯・六左衛門・宗三・源介・源十郎らの名工が輩出して陶業に従事しました。
彼らは音羽・清閑寺・小松谷・清水などに住み、音羽・音羽屋・丸屋を号としました。
また慶長末に窯を五条坂に移しました。
同地は阿弥陀ヶ峰の豊公の廟所に近く窯煙が常にこれを汚しますので、時の官所から移転を命じられたものだといいます。
またこの時に茶碗屋久兵衛という陶工がいて彩画法を発明し、ついに金・赤・青などの彩色を施すに至りました。
しかし久兵衛は粟田焼では商人と伝え、清水焼では工人と伝えており、いずれが正しいのかわからないようです。
工人であって商人を兼ねたものであるだろうかと思われます。
その後寛永年間(1624i四四)に至り野々村清右衛門(仁清)が清水産寧坂に窯を築き雅器を製造しました。
また尾形乾山が種々の物品を製造し大いに賞されました。
中でも文化年間(1804-18)に至って青木木米が中国の陶法を研究して盛んに雅品を製造し、かつ『陶説』の和訳を広めて国益を図りました。
これにより清水の製陶はまた進歩して京窯の名声は広まりました。
この頃高橋道八(仁阿弥)・清水六兵衛・清風与平・和気平吉(亀亭)・尾形周平・水越与三兵衛などの工人が輩出し、皆その業に名声がありました。
特に和気平吉・尾形周平は相図って青花磁器の改良を企図し、平吉の門人熊吉に各地の製磁の法を研究させ、熊吉は各地を遊歴し、ついに肥前有田で石磁の秘法を修め、帰京ののちこれをもとにして製造してみますと、製品はすこぶる良好で旧製を一変する程でありました。
以後高橋道八・清風与平・清水六兵衛らがその製法を練磨し、ついに金欄彩画などの美術品を製して広く海外輸出の道を開き今日に至っています。
以上の所伝によってみますと、この地の陶業の発達は主に永正(1504-21)・慶長(1596-1615)・寛永(1624-44)・文化(1804-18)などの時代における各工を経て今日の進歩をみるに至ったようであるようで、また粟田焼と比べますと、両地ともに始祖が同じであるのに発達の遅速においては自ら期を異にしています。
すなわち栗田ではその発達の初めが慶長年間にありますが、この地ではすでに永正年間にあって粟田に先立つこと九十三年でありました。
事実そうであるのか、あるいは両地に伝わる口碑の精疎の違いによるのかはもとより知るすべもないようです。
(『日本近世窯業史』)