赤絵式は黒絵式とは反対の技法で、赤い地の上を黒の絵具で塗りつぶしてゆき人物などを浮かび上がらせる手法。
ただし目・鼻などは黒で入れてゆく。
紀元前六世紀末からアッティカで盛んとなりましました。
この技法によって人像はより精密に描かれるようになりましました。
黒絵では刻文で表わした細部も筆で引いた黒線で表わしています。
そのほか人像の表情なども自由に写生的に描かれています。
工房主であり画工であったエピクテ一トスは黒絵も少数製作しています。
彼の工房には多くの陶工・画工がいてエピクテ一トス派を形成しましました。
この派のものには悪魔の視線をにらみ返すための大きな眼の付いているものがあります。
いわゆる邪視信仰の現われであります。
そのほかにはアンド一キデス、ソシアス、エウテシデス、エウフロ二オスなどがいてそれぞれ工房を経営し自らも描いましました。
この頃多くつくられた酒杯は、外に帯状の文様、内に円い文様を付けるが、その文様も内外を統一的にまとめたものができるようになりましました。
テ一マはアテネの英雄テセウスの物語や、日常の生活・競技・宴会・工房風景などが自由に選ばれましました。
やがて壁画を主軸とした絵画が発展してくると、壺絵は次第に壁画風となりましました。
紀元前五世紀半ば以後のことであります。
絵は優雅となり、人物を大きく描き、写実性を強調するようになりましました。
しかしペロポンネソス戦役(前431-前404)の結果シチリアが失われたことは、アッティカの輸出陶器に大きな影響を与え陶器産業は衰え始めましました。
日常の器物は大型のものと小型のものに分かれるようになり、色はさらに豊富となりましました。
しかし絵画が一方でいよいよ盛んになるにつれて、陶器の絵画性は低下していきましました。
前四世紀になるとイタリアのタレント、カンパ二アなどに陶器製造の中心が移って、ギリシア陶器はまったく衰えましました。