中国清朝乾隆帝の六十年間(1736-95)における景徳鎮の官窯並びにその窯器を指す。
乾隆の初期には雍正年間(1723I三五)からこの地に駐在して窯事を監督した有名な唐英が引き続き1749年(乾隆一四)まで窯務の監督に従事していました。
唐英は初め任を受けてこの地に来た時康煕帝第十三子恰賢親王を経て親しく雍正帝の命を受けたこともあってすこぶる熱心に窯事を研究し、ついに自らこれに通暁して種々の窯事に関する発明を行ない、その結果また時流にかなったこともあって乾隆年間に空前絶後の盛観を呈するに至りました。
実に乾隆年間は中国窯業の絶頂期といわれ技術上ほとんど神わざに近いものがありました。
すなわち人間が想像できるものはすべて磁器でつくられないということなく、銅器・漆器・大理石・豆斑石などに至るまで真を欺く程のものをつくるに至りました。
美術の方面からこれをみても繊細巧緻は過ぎたるものがありますが、風趣においてはかえって索然たるものがあるとの批判もやむを得ないところであるでしょう。
乾隆中期以降に至って次第に品質の低下をきたし、技巧さえも昔日の観なしといわれています。
唐英は焼成技術の研究に専念して、その結果『陶成示諭稿』および『陶人心語』などの著書を書いました。
なお1743年(乾隆八)皇帝の命によって提出した『陶冶図説』は有名であります。
また唐英の発明した技術上の新法に、洋紫・法青・抹銀彩・水墨・洋烏金・磁窮画法・洋彩烏金・黒地白花・黒地描金・天藍・窯変などがあるといわれます。
なお唐窯の器皿については「土は則ち白壌にして埴、体は則ち厚きも薄きも惟だ脈。
廠窯は此に至って集大成せるなり」と『景徳鎮陶録』に記されています。
また唐英の集に臨川の李巨来が序するところによりますと、従来絶えていた竜鋼窯および金窯の焼成を復興し、弱翠・攻璃色を創始したと記しています。
乾隆窯の種類に至っては千差万別で一々述べ難い。
有名な古月軒は主として乾隆の産であるといわれています。
乾隆窯の款識は篆書体の六字款が最も多く、また楷書体その他の種類もあります。
(尾崎洵盛)