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鶴田 純久の章 お話

江戸の陶工三浦乾也。
天禄堂と号しました。
1821年(文政四)生まれ。
幼名藤太郎。
早くから伯母の夫井田吉六の許にいたが、出奔後自ら土人形をつくりこれを売りました。
のち西村貌庵に見出され二十四歳の頃から破笠風の品をつくり有名になりました。
その後石井仏心の養子となったが合わず、1854年(安政元)幕府から造船練習方の命を受け勝安房と共に長崎に行き滞在すること一年、また仙台の伊達侯に招かれて松島寒風沢(宮城県塩釜市浦戸寒風沢)に造船所を起こし、1856年(同三)新船開成丸を竣工させました。
1869年(明治二)神奈川県小田原に窯を開き、埼玉県の飯能窯にも従事し、翌年神奈川県横須賀で初めて碍子を焼き、東京に戻って小菅(葛飾区)で煉瓦を製造。
のち深川(江東区)高橋付近に陶窯を築き、1875年(同八)より向島(墨田区)長命寺内で製陶しました。
1889年(同二二)10月7日没、六十九歳。
このように乾也は陶器以外にも多才を発揮したが、陶法は尾形乾山の風を慕って、西村貌庵から乾山伝書を授かり多く乾山作を模倣しました。
破笠風の製には最も練達し、後世その右に出る者はないといわれます。
向島長命寺に入ってからは根掛け箸の珠を焼き、乾也珠の名で流行しました。
なお乾也に六世乾也と款したものがあります。
乾山を称しなかった理由は謙遜からとも、独自の見識からともいわれています。
門下に乾昇(深省堂)・乾也・浦野乾哉らがいます。
(『工芸志料』『工芸鏡』『彩壺会講演録』『陶磁』七ノ四)

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