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鶴田 純久の章 お話

長門国(山口県)萩の陶器。永正(1504~21)頃始まったとする説もあるが、記録にみえるのは、文禄・慶長の役後の1604年(慶長九)毛利輝元が萩へ入府して間もなく、連れ帰った朝鮮の陶工李敬が帰化して松本(萩市椿東)の地に良質の土を見付け開窯したのが最初である。李敬は藩主毛利氏から住居と窯場を与えられ、のち名坂本助八と改め、さらに坂高麗左衛門と称し、韓峯山または入唐山と号した。1643年(寛永二〇)の彼の死後、子孫は同じく毛利氏に仕えて業統を継ぎ、現在の十一代に至っている。なお別系として李敬の兄勺光の孫山村平四郎光俊が始め深川焼(長門市深川)、三輪休雪が始めた三輪窯、林半六らの系統があり、いずれも萩焼に含まれる。詳しくは各項参照。
【製品】古来茶の湯茶碗の品定めに一楽二萩三唐津といい、萩焼は早くから茶人に珍重され、その土味・重み・素地の景色・釉の艶など古い朝鮮茶碗に最も近いものといわれる。萩焼のうち古萩と呼ばれるものは初代高麗左衛門・二代助八・三代新兵衛時代の作を指す。作風を朝鮮井戸に倣い、その質は緻密でなく、釉色は淡薄な白黄で、また釉中に石ひびがある。器には茶碗・香合・花瓶・盞盆の類があって茶碗が最も喜ばれ、割高台のものが多い。時代が降って八代新兵衛の作にはややもすると京都の土でつくったものがある。そして近代になって、古い頃の御本手・玉子手・鬼萩手・白萩手・三島手のほかに天目手・仁清もの・染付・伊賀手などが加わり、器も抹茶器のみならず置物・煎茶器・鉢・皿・奈良茶碗・徳利・小鉢などの和食器・水指・煙草具・文房具・花瓶などの雑多の諸器をつくるようになった。
【名称について】萩焼には坂氏・三輪氏・林氏の三派があり、坂家を本窯とし他の二家を脇窯とすることがある。また古萩・松本萩の名称は時代を区切るためのもので、三輪家の作のみを特に松本萩燒鬼萩茶碗萩焼筆洗型茶碗ちりめんというのではない。深川焼は深川萩と呼ぶことがあるが、それはこの地方での名称であって一般には松本萩・深川萩は共に萩焼と総称される。
(『甲子夜話』『桂林漫録』『雍州府志』『本朝世事談』『韓峯記』『鑑識録』『陶器考付録』『本朝陶器攷証』『万宝全書』『工芸志料』『観古図説』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『陶器類集』『日本陶磁器史論』『大日本窯業協会雑誌』四六『日本近世窯業史』『日本陶瓷史』『茶わん』四八)※こうらいざえもん ※まつもとはぎ※ふかわやき

萩焼は山口県萩市を中心として山口県下で作られた焼き物の総称です。
その起源は文禄の役に帰順して大阪に来ていた朝鮮の陶工李勺光(一名シャムカン)を、その後豊臣秀吉が毛利輝元(寛永二年四月歿行年七十三歳)に預けられ、芸州広島にいましたが、慶長五年輝元は豊臣方に味方し、徳川方に敗れ、長州萩に改易されましたので、李勺光もこれに従い萩に移り、城下の松本村字中ノ倉に開窯したのに始まります。
その後、弟李敬を朝鮮から呼び寄せ協力させています。
李敬は帰化して初め坂倉の姓を名乗りましたが、後に坂の姓に改め、通称を助八と申しました。
寛永二年藩主から「高麗左衛門」の日本名を賜り、藩の御抱窯として代々この名前を世襲して現在に及んでいます。
一方李勺光は輝元の命により昔から長州地方にあった古窯の調査を行い、その復興を命じられましたが、長州深川の三の瀬で歿しました。
その後李勺光の歿した長門市深川の地に、山村光俊を主家として李勺光の弟子、山崎平左衛門達が寛文年間に創窯しました。

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