画金磁器 がきんじき

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鶴田 純久の章 お話

朝鮮の高麗史に画金磁器の文字がみえることは、朝鮮においても早く『大東韻府郡玉』の編者が注意しているところであります。
高麗史にはまた金画甕器の文字をも用いています。
画は花に通ずるので金画はすなわち金花と同じであります。
しかしそれがいかなるものを指すかについては、磁器の縁辺に施された金の覆輪のことでしょうとも、ソウル博物館の陳列品にある柿釉や烏天目の金彩のある蓋のことでしょうとも、また金彩を施した高麗青磁であろうともいわれました。
1933年(昭和八)開城府の高麗王宮址満月台に近い人参乾草場の改築工事中、高麗象嵌青磁の酒甕が発掘されました。
惜しくもいくつかにこわれ口廻りの全部と胴部の一部か欠けていますが、俗に高麗扁壺と呼ばれる扁平に胴部を押さえ付けられた形状の甕で、ほとんど全面にわたって白土・黒土による象嵌があり、さらにその上に金彩を施しています。
その文様は前面の扁平なところに大きく菱花形の輪郭をとり、その中に一匹の猿揃が桃果を持って樹下に坐している図を現し、やや細まった両側面には宝相花唐草の優麗な花文をちりばめ、口廻りには蓮弁模様に玉縁をもって取り巻き、底部には二重の蓮弁模様を巡らしています。
すべてに賞嘆を禁じえないものだ、この甕を高麗青磁の王者の地位に置いているのは、その文飾が金彩により燦光を放っているところにあります。
それは白土を象嵌した文様の上に金を置くのではなく、象嵌のない青磁の表面に金描して文様の一部を形成しています。
例えば猿喉の背後の樹木の下には巌石が金にて描かれ、菱花形の外郭には二重の白象嵌の線に金描の線がさらに加えられています。
これぞ金画甕器の名に当てるものであることを思わせます。
高麗青磁に金彩を施した器はもう一つ近年に見出されました。
それは江華島の出土と伝えられ、俗に朝顔形と称せられる高台が小さく端の広がりの大きい深く端正な形状の碗で、この手の碗としては比較的大きなものに属します。
碗の内側は、その口辺に陰刻によって唐草文の細い帯を巡らせ、その下に見込に向かって左右に二つの瑞鳥を向かい合わせに描いています。
瑞鳥は1凰で、これは金描であるがすでに金は剥落し、釉の上にはっきりと文様の痕を残すのみであります。
外側は口辺に白土で忍冬唐草文の細い帯を象嵌し、高台の周囲には白土と黒土の象嵌で蓮弁文を巡らし、この両者の中間の青磁の上に梅花と月とを金描しています。
高麗史の二つの画金磁器の記載から、
(一)忠烈王(1275~1308八在位)の時代に高麗において画金磁器が製作されたということ、
(二)それは高麗より中国元朝への進献品であり、元の世祖を驚かせ下問を発させた程に豪華を極めたものであったということ。
(三)世祖の崩後もさらに進献が続けられ、碗のみでなく甕さえあったということが知られる。以上によって開城および江華島出土の象嵌青磁二点は、正に高麗史の記述と照応すべきものと考えられ、特に開城出土の器は忠烈王二十三年(一二九七)正月に進献の金画甕器を想察するに足りるもので、かの画金磁器というものが高麗象嵌青磁であることを明証している。(『陶磁』六ノ六)※びょうきん

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