平戸松浦氏
平戸松浦氏は、又唐津の波多氏、有田の有田氏、伊萬里の伊萬里氏等と同じ松浦氏の分系である。源太夫判官久の孫披、始め上松浦川西の峰邑に在りて峰五郎と稱せしが、治承元年(1177年)巖谷(東松浦郡嚴木村)に轉じ獅子ヶ城を築きて居住した。而して後年に及び父直の分譲地下松浦なる、御厨莊田若干を受けて田平の城主となり、そして獅子ヶ城は彼の兄大川野遊より出でし、鶴田氏の居城となったのである。
而して後代に至り御厨、鷹島、平戸、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田 江迎、小値賀及び黒島、五島の數部又東島を分領し、そして御厨莊の地頭となった。
披の子源藤次持、其子源三郎繫は、共に平戸を姓とせしが、又五郎湛に至つて又峰姓に復し其子源五郎苔より以後代々松浦を姓としたのである。
而して當時四十餘人と稱せられし松浦黨の中獨り此平戸松浦氏のみが繁栄して今に残つてゐる。平戸松浦系圖左の如くである。(平戸松浦系圖参照)
鬼肥前守
六代肥前守定は、武勇隣國に鳴り鬼八郎させられた。彼は南朝に属して勤王に盡せしこと少なからざりしも、共嗣勝に及びて足利尊氏に従属した。十二代義の如きは、足利義政の恩顧甚厚く、義政自身の腰卷及び飾の半切、或は毛氈の鞍覆等を與へられた程である。義政卒するや義は剃髪して天叟と號し、法衣を着して平戸の是興寺に住居せしが、後年紐差木勝に普門禪寺を建立して、義政の像を安置し、又此處に移った。
赤烏帽子
義甞て義政に乞うて、赤烏帽子を着けしこありしが、義政手づから之を畫き興へしが、後年南禪寺の景南がまた之に讃を書せしていはれてゐる。
弘定聯合軍に追はる
十三代豊久の次子弘定十四代を嗣ぎしが、彼は頻りに南進を圖り、延徳二年(1490年)兄の峯源四郎昌(後純意)を田平里の城に攻めて之を走らしめた。高來の有馬貴純は弘定の所置を理不盡なりして、翌三年五月、大村純忠、波多盛を始め、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政等を糾合して聯合軍を作り、同年十二月二十七日昌の爲に田平城を攻撃した。弘定大いに敗れて安岳東なる箕坪城に走り、籠ること百餘日なりしも昌の軍頻りに逼るに及んで、彼は僅に身を以て通長門の大内義興に頼ったのである。
明応元年(1492年)義興は、弘定を救ふ名を大擧貴純に通るや、貴純和を乞ひ、弘定漸く踊ることを得しが、斯くて昌の子興信を以て、宗家十五代を継がしむることゝ成った。興信又南進の志を継ぎ、嚮きに聯合軍に加はりしを名とし、明応七年十二月二十日(1499年)相神浦なる、松浦政が大智庵城を奇襲して之を陥ゐれ、政は戦死するに至ったのである。(此哀史は有田編に記述す)
飯盛城を攻む
天文十一年九月五日(1542年)興信の子隆信は、政の男保が居城飯盛城(大智庵城は嚮に落城の際燒失せるを以て別に新せしもの)を攻め、互に一勝一敗ありて決せざりしが、翌十二年春高來の有馬尚純は、實永寺及潮音寺の二僧を遺はし、居中調停して和議を結ばしめ、保は鷹島を割いて隆信に譲ったのである。
葡船平戸に入港
天文十七年(1548年)葡萄牙商船(船長トアルテ・ダ・ガマ)始めて平戸津に入港せしを隆信之に其來泊を赦し、馮港との通商を開くに至つた。
切支丹傳來す
そしてエスイタ派(羅馬正政)伴天連 フランシスコ・サビエル(西班牙人)來つて此地に布教し。或は又エキレンシャなる者、スナイドル(鐵砲)及ハラカン(入子石火矢)等を輸入して、平戸の武力を強大ならしむるに至った。
(萬力も此時始て輸入した、尤も我邦へ始めて鐵砲を齎せしは、之より先十二年八月廿五日のことにて、薩摩の種ヶ島に来りし支那の海賊船中に交れる葡人三人、之を島主種ヶ島時に傅へたのである)
五峰大船主
之より先き天文十年(1541年)、明人五峰王直なる者、大船數隻を所有して、呂来、安南、遥羅、馬刺加等に往來し、或は支那沿岸に出没して貿易又は海賊をなすこと五六年、財大いに富み部下千餘人を率て五島の福江にありしが、平戸に来りて宮の町(後の印山寺屋敷)に根據を据え自ら微主とした。そして二十二年には中國を始め松浦沿岸の猛者共一萬餘人を募集して艦隊を組織し、江蘇、浙江の沿岸を侵掠する等宛然東方の海上を把握するの觀があつた。
前記葡萄牙船の平戸入港も、全く此王直の誘導に出でしものさいはれてゐる(一説には前記の葡萄牙船が豊後國八ッ星浦より歸航の際も稱せらる)斯くて此王直は、平戸に磐據すること十五年の後(弘治二年)(1556年)、明人胡宗憲等に誘殺されたのである。(其後慶長、元和頃の海賊頭梁は、王直の部下なりし楊天生であり。次に同僚のアンドリヤ・デチー乃ち顔思斎であつた。又其後継者が、思斎の部下老一官と呼ばれし鄭芝龍にて、彼が平戸に歸化して、邦人を娶りて生める田川福松が、有名なる鄭成功「國性爺俗にいよ和唐内」である。
彼れ成功は臺潟を根據としてゼーランヂヤ城「安平にて蘭人の築きし赤篏城」を陥れ、パダビヤ政府を震駭せしめしものにて、寛文年間其子鄭經に至つて遂に臺潟を統轄したのである)
布教と武器
戰國時代に於いて、鐵砲及石火矢の如き武器の輸入に至つては、各領主が争うて其入手に腐心したのは當然であつた。而して此利器と其使用法を傳へたるは、前記の南蛮人エキレンシャにて、彼は耶蘇切支丹の奉教と交換的に傳授した。そして平戸藩にては籠手田左衛門、一部勘解由の二人が、此宗門に入りて其使用法を習得せしも、後に至つて何れも奉教を捨たのである。
然るに一度び宗門に入りし此二人の采邑地、度島及生月島の住民は、旺然として十字架に歸依するに至り、其の牢乎として扱ぐ可からざる信仰は、慶長十九年以後の迫害にも屈するところなく、甘んじて最多数の殉教者を出したのである。
之より斯教を信奉する者平戸地方を始め、西南部肥前に多きを加ふるに至り、大村理専(純忠)は永祿五年(1562年)に洗禮し。有馬壽仙(義直)は天正四年(1576年)に洗禮した。後年平戸入津を禁せられしエキレンシヤは、豊後の大友宗麟(義鎮)に、如上の手段を以て傅へたのである。
再び飯盛城を攻む
永禄六年八月(1563年前)松浦隆信は、如何にもして南進の素志を貫かんと思ひ、先づ相神浦を略すべく、大野豊前守定屋、同次郎右工門定晨等二百五十騎を先鋒とし自ら佐々の鳥屋城に陣し、定晨を東光寺に留めて兵を飯盛城に進めたのである。
城中よりは東甚助齋忠、東五郎秀勝、東四郎秀次、北野源藏直勝等能く防戦し、殊に保は鷹島の回復を計りて雌雄を此一戦に決せんと、兵を海陸より進めて大いに戰ひしも、此時敵には鐵砲ありて容易くは破り得なかつた。
三度飯盛城を攻む
同八年五月五日隆信又飯盛城を攻めしも、城兵邀へて能く防戦し、平戸方は大崎筑前守照屋、舎弟民部澄月、佐々刑部稠、南藏人 中山治郎、志方市之允等死傷三百餘人に及び其後敗決せざること二年に渉つたのである。
松浦親を養嗣とす
此時保は、高來の有馬仙巌の男五郎左高を養嗣子となし、松浦境と名乗らしめしに、五郎は去って以来何等の聲援さへ興へざしを慣れる折から、永禄十三年(1570年)三月二日松浦隆信、又飯盛城を攻撃すべく中里を焼き拂ひ、東光寺に陣處を構へた。時しも武雄の後藤貴明、仲介和議を勤むるに會ひ、保は隆信の三男九郎親を飯盛城の世嗣となし、己れは宗全と號して隠居したのである。
元龜二年(1571年)有馬五郎左高は、飄然として飯盛城に帰り来りしかば、親は大いに當惑せしも、有馬、平戸の兩全を計り五郎を兼領地なる有田の領主として、唐船城に居らしめた。
然るに彼は大いに之を不滿とし、同年十月飯盛城を攻撃せしを、平戸の援兵來つて、五郎の軍勢は撃退されたのである。
速來四ケ村の分與
斯くて隆信は、相神浦を略することゝ成り、彌々南進の途を開くに至りしが是より先永禄七年(1564年)次子惟明を、杵島住吉城主後藤貴明の婿養子に遣はせしより、元龜二年(1571年)貴明は、自領なる速來の四ヶ村を、婿引出物として隆信へ分興したのである。
おさい塔の由来
元亀三年(1572年)正月二十日有馬五郎は、唐船城にありて、有馬の家老有馬將監と氣脈を通じ、兵五千を以て密に飯盛城を奇襲すべく計畫した。然るに其末た發せざるうちに、同城にありし山本右京は、臨月なる妻のおさいを伴なひ、十二月二十九日の深夜雪降りしきる中を、五才の一子勝之助を負ひて、密に西の嶽の間道を越えるうち、おさいは難産に斃るゝ等の困苦えお経て、奇襲の企圖を親に告げしかば、飯盛勢は平戸の援兵と共に、先つ發して中途に五郎の軍を激へ、相踏原(今の一の坂邊より三本木邊りまで)に遭遇して大いに之を敗り、五郎は高來へ遁れ歸つたのである。
松浦父子龍造寺に降る
之より隆信は、彌南進の羽を伸ばす可く企圖せる折、我力に除る強敵は目前に翼を擴け來った。それは佐嘉の龍造寺隆信であつた。天正二年(1574年)隆信は鍋島信生(直茂)を主將として、平戸を征服すべ進軍し来るや、松浦隆信は到底敵す可からざるを覺り、長子鎮信と内議して、途に龍造寺氏に降るに至った。
鎮信の朝鮮役従軍
鎮信は、後年又豊臣氏に属し、文禄元年四月十二日(1593年)兵三千をみて戸を出帆し、一旦名護屋浦に集合して二十八日釜山に上陸した。之より小西行長の先鋒軍に加はりて、韓土に轉戦せんが、同二年正月七日平壌の敗戦となり、相神浦の松浦定(親の嗣子にて實は鎮信の末弟)等多く戰死したのである。
最初出軍の割當は、三千人の定めなりしも、途上或は戦死し或は病歿し、共補充して追々と渡海せしを以て、最後歸陣の際までは、實に七千二百人の出陣者を数へられ、就中討死手負一千二百人と註せられしは、其他の諸藩も同様なる可如何に我出兵軍が苦戦せしかを察するに餘りある。
巨關、頓六等渡来
慶長三年十二月(1598年)鎮信歸陣の際、連れ歸りし韓人にて、平戸に上陸せしもの百二十五人と稱せらる、蓋し彼等は、戰役中に渡來せし者の如きも詳でない。斯くて泰西の文化輸入にトップを切りし平戸藩は、又韓士の陶業を自領に扶植すべく試みたのであらう。尤も此内陶工と稱する者は、僅に十人に過ぎさりしといはれてゐる。
中野の御用窯
此折韓人等は、平戸城下に町割をなして居住(今の高麗町)せしめしが、此内陶技の心得ある巨闘や頓六等を召して、城内に於いて試せしめ、次に此處より十三里を隔てし中野村の上椿坂(又紙漉)に於いて御用窯を開き、此處にて例の高麗風の刷毛目、粉吹手等を製作した。
就中斯技に長しは巨闘にて、彼は咸鏡道熊川の生れ、此時四十三才なりしが、後には平戸の藩籍に入り、今村彌次兵衛と改めたのである。
彌次兵衛の創製には、どろけ釉なる中野焼の一種がありそして坏土は重に朝鮮より取寄せしものである。元來此地方良土に乏しき爲め、其後も屢彼國より輸入するの外なかつた。此不便を除くには、良土の探索が積年の宿望であつた。尤も此處の皿屋窯の磁器は、後年の開窯にかゝり、無論天草石を原料として焼きし物である。
蘭船と三浦按針
慶長十四年五月三十日(1609年)阿蘭陀船ローデ・レーウ・メット・パイレン號及びフリフーン號の二艘平戸に入港し、英人 ウヰリヤム・アダムス(慶長五年六月泉州堺の濱に来りし、三浦按針、元和六年四月十四日平戸に於いて卒す、五十七才)の斡旋にて、家康の通商免許を受け、八月二十二日には領主鎮信の承諾を得て、彌々平戸商舘建設となりしものにて、藩老佐川主馬助信利(平戸松浦系圖参照)又大いに盡力せしものである。
巨關の陶土探見
之より十四年を経て、元和八年(1622年)に至り、藩主隆信(久信の子にて鎮信の孫)の内命に依りて、今村彌次兵衛は陶土發見の爲め、領内の各地を踏査することなり、一千三之亟及家來久兵衛を連れて戸を出發し、諸處探索の末、早岐の権常寺、日宇の東の浦折尾瀬の三河内免なる吉のさ、相木場に於いて陶土を発見し、そして吉の元に住して、研究的に試焼せしと稱せらる。
納屋谷と稗田
廣田の納屋の谷に於いて彌次兵衛父子が試燒せし説あるも、此處の上窯と下窯は、無論後年のものらしく。又早岐驛前面の山手なる稗田に於いて、蛇の目積せし磁器の皿、茶碗及煎茶々碗等を製作せしは、三之亟が創始せしとの説あるも詳でない。
三河内山
平戸の陶業のみは既に南進して、彌々折尾瀬方面に展開するに至った。元來此折尾瀬製陶の起原は明ならざるも、彼の文禄三年(1595年)波多氏没落の際、鬼子嶽崩れの陶工が、此處の三河内なる長葉山(舊名鳴早山又早山)に来つて開窯せしと稱せらる。蓋し此處の發掘品中に、均窯風の海鼠釉ありて、それが鬼子嶽古窯の殘缺に髣髴たるためであらう。
長葉山の古窯品
其外長葉山の古窯品には、天目釉、黒天目釉の茶碗にて、緑を白釉にて塗りしものがあり、或は鶯茶釉の縁淵小皿にて、小高臺の無釉物がある。又後代の製品には、碪青磁や、種々の染附磁器を焼いてゐる外、吳洲山水繪の氷裂出三寸五分の茶碗や、型打模様の重箱などが發掘されてゐる。
中里嬰女
茲に又巨關乃ち今村彌次兵衛と、同じ咸鏡道熊川の生れにて、嬰といへる女あり、戦役の折我軍に捕へられて唐津に渡来した。或は歸陣の際松浦鎮信に從ひ來りしての説あるも確でない。而して彼が二十七八才の一婦人の身として、何故に捕はれしか、そこに推測すべき問題が生じて來る。
當時彼の容姿が、若し端麗なりしすれば、我将士が長期の陣営に其憂鬱を散せんため、或は宿營に侍らせしにはあらざるか、それは敢て一軍の將にてはあらざる可きも、必ずしも臆測とのみ断すべきでない。而して平和克復でなく、戦争停止中の日本を指して、單身渡來せし丈にても、尋常一様の者にあらざりして見ねばならぬ。
別説の女
然るに又別説に依れば、彼の名の嬰といへる字は、元来醜女の意義にて、其容貌に對する綽名なりにありて、前説とは正に反對である。そして彼は元釜山の神官の女に生れ、朝鮮役前既に唐津に渡来して、椎の峯の陶家中里茂兵衛に嫁せしも、夫死去せしを以て、十才なる一子茂右工門を連れ、元和八年年(1622年)鬼子嶽崩れの陶工を使りて、此地長葉山に來った、時に年五十六才と稱せらる。
高麗媼
嬰女性豪健にして頗る陶技に熟し、一子茂右工門並びに多くの工人を督勵して、此地陶業の基礎を築きし主腦者であつた。寛永六年(1629年)一種の灰色焼を創製し、同十一年更に研究して、朱泥の逸品を製するに至った。彼老いて益々壯んに、又良く子弟を教養した。衆皆彼を呼ぶに高麗媼と稱したのである。
彼杵地名の神話
抑三河内山の所在地たる彼杵の莊は、往古藤津の莊の地であつた。そのころ此處の虚空にあたり、怪しき物出現せしより、縣主は畏れかしこみて神樂を奏しけるに、天津空よ一個の杵忽然と降り來つた。其後僧行基彼の杵を以て彌陀の尊藏を作りて安置せしより、藤津の莊を割いで此處に彼杵の荘を分置し、彌陀の四十八願に因みて、彼杵四十八ヶ村を定め、其村々より四十八本の柱を寄進して伽藍を建立し、大安全寺大阿彌陀堂と稱するに至りし云々と、神話めき空事の傳説がある。
折尾瀬と三河内
三河内山は木原山、江永山と共に、東彼杵郡折尾瀬村の一村落である。而して折尾瀬の地は、往年彼杵の莊なる速來の一部であつた。當時の速來とは今の針尾、早岐、廣田、折尾瀬四ヶ村の總稱にて、此四ヶ村は其頃武雄の後藤貴明の領地なりしを、元亀二年(1571年)松浦隆信に分輿せことは前述の次第である。
却説今村父子は三河内に来り、此地が頗る製陶に適することを知り、高麗媼とも面談して親しく其陶技を見しが、三之亟は倩ら自己が技術の未熟なるを感じ、只管陶技の勉學に志したのである。
其頃斯道の名匠高原五郎七が、唐津領椎の峯にゐる由を聞傳へ、兼ては彼地の陶業を視察すべく、椎の峯へ旅立つたのである。
椎の峰見學
然るに五郎七は、此時既に南川原の柿右工門に招聘されし後なりしかば、三之亟は暫らく椎の峯に滞在して、技術見學の傍ら、親しく諸國の浪人や工人と交際した。中にも陶技に於ける福本彌次右工門や、繪畫に於ける京都の浪士山内長兵衛及び丹波笹山の浪士前田德左工門等の人々があつた。此時媒介する者ありて、三之亟は徳左エ門の女を娶り、連れて南川原に来り五郎七を訪ねたのである。
南川原に五郎七を訪ふ
彼は五郎七が支配せる工場に来り、親しく其技法を習はんと欲せしも、當時有田の製法に則り、始めて南京白磁の製作に成功せ五郎七は、容易く此製法を洩らすべき様子がない。彼は殊更釉薬部に注意せんが、此調製部の手傳ひとして、悉く女のみ使用しつゝあるのを見て、三之亟茲に思いつき、己が妻をば此釉薬部の手傳ひに雇はるゝことに成功したのである。
釉薬の秘法を探ぐる
尤も三之亟が妻は、嚮に椎の峯に於いて、五郎七とは相識の間柄とて、止を得ず納得せしものと察せらる。斯くて妻は釉薬の各材料を持ち運ぶ前に、先づ其總分量を見計り置き、次に使用せし残量を掃き運ぶに當り、其前後の差を算定して、概念的に此調合分量を覚る事が出来た。(或は釉土灰を調合所の二階に運べる前に、水を量り置き、使用の後土灰の残りを密に持蹄らしめて、計算せしさいふ説もある)既に目的を達したる三之亟夫妻は、忙だしく此處を立去ったのが寛永六年(1629年)であつた。
網代土發見
斯くて三之亟は、直ちに之を試みることを憚りし而已ならず、之に資す可き適當の原料を見出さなかった。是より彼は變名して、肥前の各山を巡視するうち、針尾島(江上村三つ岳)の網代土を発見した。蓋し之は権常寺の寺男某が江上に渡りし際、何心なく拾ひ歸りしを、三之亟一見して其良質ならざるやを認め、数度試焼してより、自ら三つ岳の産地を調査せしといはれてゐる。之はアルカリ質に富める長石類にて、最初は是を製磁の主料に試みしも、後には釉薬の原料となりしものである。
網代分析表
網代土上等水飛物分析表
珪酸70.94
礬土17.98
酸化第二鐵1.00
石炭0.83
苦土0.63
加里5.08
曹達3.50
灼熱減量3.50
同土中等水飛物分析表
珪酸70.93
礬土18.22
酸化第二鐵0.75
石炭0.86
苦土0.41
加里5.63
曹達3.18
如猿生る
三之亟は、又佐嘉領内の各山を見學有田より武内の黒牟田(内田は既に有田へ移博後)を経て、須古に来る途上、此地籾岡山に於いて、一子を繋げしは寛永十二年(1635年)にて、之が後の如猿である。その頃大村領の中尾山に磁石が發見され、既に製作されゐる由を聞傳へ、最初三の股に滞在せしも後中尾山の近傍に轉じたのである。
三之亟の歸山
其頃高原五郎七も、有田岩谷川内の藩窯を、遂電せし後さて憚りもなく、三之亟は此中尾山に於いて、磁器の製作を試みるに至った。蓋しそれは例の薄鼠色を帯びしものに相違ない。此事平戸藩の知るところとなり、翌十三年隆信は、藩士志方平之丞を遣はして歸國を命せしより、彼は事業を門人小柳吉右工門に譲りて三河内へ歸山したのである。
三河内の製磁
之より三之亟は、嚮に發見せし網代土を主料として、磁器及青磁を製作することに成功し、大いに隆信の賞讃を得、後年平戸に於ける南蛮貿易上、非常に珍重さるゝに至つた。
長葉山の藩窯
同十四年隆信は三河内の字九山(東山)に別荘を新築し、長葉山に於いて藩用の製陶所を設くることゝ成るや。三之亟が椎の峯にて相識の陶家福本彌次右工門及び山内長兵衛、舅前田徳左エ門の三人を招聘し、三之亟を共主任して、専ら之に當らしむることゝ成った。
此時三之亟が、彌次右工門及び徳左工門名宛にて送りし招聘状は、三月十四日の日附にて、今なほ福本家に保存されてゐる。扨此建設に、頭梁三之亟の外連名せるは、畫師山内長兵衛豊英、同前田徳左エ門、窯燒方中里茂右工門、同福本彌次右工門、同口石長右工門、同金氏太左衛門、同藤本治左工門等にて、何れも各二人扶持の外に、出勤扶持を興へられしが、此外に三之亟家來沖田久兵衛の名も加へられたのである。
此時隆信は、三之亟へ廣正の太刀一口並に相木場の知行所を興へ、長兵衛、徳左工門其他へもそれぞれ知行所を興へたのである。
小山田佐平
此年又三之亟は唐津椎の峯の陶工にて、既に領内吉の元に開窯せる小山田佐平を聘し、之を藩主に推擧せしが彼また若干の扶持を給せらるゝことゝなった。
福本彌次右エ門
福本彌右衛門は、元鬼子嶽崩れより椎の峯にありしが、彼が三河内へ轉せしより五十年後の元祿年間に於いて、唐津藩主が藩用の陶家太左工門へ福本の姓を興へしは、断絶せ椎の峯の福本姓を再興せしめして見る可きであらう。彌次右工門の略系左の如くである。
三河内の福本略系
福本彌次右工門 初代
彌右工門 二代始蝌一
久之亟 三代
喜右エ門 四代
斧石工門 五代
喜右エ門 六
貞兵衛 七代
梅之助 八代
徳五郎 江永小栗喜左エ門養子卯平五代,祖也
脇右エ門 九代
喜太郎 十代
源七 十一代
牛石
前記の如く三河内の陶業は、長葉山を最古とし、次は今の三河内驛前の牛石(又坂井手)古窯地と稱せらる。此方面は伊萬里系の原明窯より吉の元地方へ分窯せる流れの如く、其殘缺なる飴釉や灰色釉溝縁の小皿など、全く共通のものである。中には薄青瓷の縁反小皿や、四つ目積の丸小皿があり、又黒天目の茶碗がある。又大皿や片口等も焼いてある。
三河内山の方面は、吉の田小谷、相木場、上登杉林、潜石等へ分布されてゐる。此内杉林へは、椎の峯崩れが入込みしとの説がある。
潜石
潜石の古窯品には、薄紫釉に白刷毛目を廻はせし蛇の目積の茶碗などがある。斯くて三河内の黒物(陶器)も茲に劃期時代をつくり、彌々白磁製作に轉向する趨勢さなつた。
出島居留地埋築
寛永十一年(1634年)幕府は、長崎奉行に命じて内外人の同居を禁する共に、市内の豪商二十五人の出資に補助を興へ、江戸町の海面に總坪數三千九百六十九坪の扇形の築地を設定し、同十三年竣工と共に、葡萄牙の貿易商のみを限りて此處に移住せしめ、之を南蠻屋敷と稱し、關門を設けて猥りに出入することを禁せしが、同年又其他の葡人及西班牙人、又は混血兒等二百八十七人に禁壓を加へて、之を馮港に追放した。
松平信綱来る
寛永十五年(1638年)島原に於ける耶蘇切支丹の亂は、久しく平和に安眠せる幕府をして、長夜の夢を破らしめしが、然も其征服にいたくも手古摺りし軍監松平伊豆守信綱は、平戸商舘長ニコラス・クークバッケルに命じて、蘭船ド・ライプ號にて出征せしめ、その有する彼が新鋭の武器を使用せしめたのである。亂漸く鎮定し、信綱は戸田左門氏鐵と共に、歸途中平戸を視察して滞留四日に及びしが、其際葡人や蘭人等の石造倉庫を見て其堅牢なるに驚き、次いでバッケルがスナッパン(石火矢)の試發を検分して、再び此威力に感嘆した。
諸種の禁令
寛永十五年(1638年)五月二日幕府は令を下し、以後各藩にては商船とても五百石以上の巨船を造ることを禁じ、(嘉永六年九月十五日解禁さる)(1855年)同時に我邦人の外国への渡航、及び切支丹を厳禁した。寛永十六年(1639年)六月更に平戸、長崎に残留する外人血統の男女をジャガタラ(瓜哇、バタビヤ等にて其後此徒より情緒纏綿たる交通ありしものをジャガタラ 文といふ)に追放した。斯くて支那人と蘭人との外全く貿易することを止め、寛永十六年(1639年)七月五日には南蠻船の渡來を厳禁したのである。
十七ヶ國の使節を斬る
然るに寛永十七年(1640年)、一旦馮港に退去を命ぜられし葡萄牙を始め十七ヶ國の使節一行は、貿易恢復の爲め禁を犯して長崎に來りし者七十四人なりしが、此中醫者、船子共十三人を赦し、あと六十一人悉く斬首されしは、寛永十七年(1640年)六月十六日であつた。而して獨り蘭人のみ依然貿易を許されしは、有名なる平戸商館長 フランソア・カロン(商務総監となる)が、幕府に對する巧妙なる運動にてヾあつた。
平戸貿易を廢す
寛永十七年(1640年)の十一月八日大目附井上筑後守正重は、多數の従者を倶なひて平戸に来り崎方なる和蘭商舘の解き壊はしを厳命し、同十八年四月には平戸貿易を廢して之を長崎に移轉せしめ、蘭人の居留地を出島に限らしめたのである。
當時の長崎奉行は柘植平右工門正時であつた。
阿蘭陀屋敷
之より南蛮屋敷を改めて、阿蘭陀屋敷といふに至り、爾來安政五年(1859年)の通商條約成立まで二百五十餘年間、此長崎出島が、我邦に於ける泰西文物の本源地あつた。斯くの如く外國の文化輸入地なりし平戸を廃して長崎に移し、之を慕府の直轄とせしは、外教取締の外、一面には平戸藩の文化輸入が、延いて該藩兵備の強力に至るを恐れたものであらう。
平戸の寂寥
嘗て天文十七年(1546年)十六代隆信の英断にて、我邦唯一の互市場となり、慶長十四年(1603年)開港以来、彌々異國の珍貨奇陶を輸入して、外人の商舘軒を並べ、天下の豪商は蝟集し來り、國產三河内焼の貿易と共に、さしも繁榮を極めし平戸は俄に寂寥のと化し終った。當時の平戶士民は勿論藩主の落膽察するに餘りある。
之より平戸藩主は、専ら三河内の藩窯を奬勵して、此憂情を慰むる外なかつた。寛永十八年(1641年)藩主壹岐守信は、三河内に来りて大いに斯業の進捗を計り、三之亟に皿山棟梁兼代官を命じ、更に相木場一面の地を悉く知行せしむるに至ったのである。
彌次兵衛と黒髪山
之より先さ寛永九年(1632年)今村彌次兵衛は、杵島の霊山黒髪山上の、大智院主尊覺法印に歸依し、七十七才の時吉の元より来りて此に隠棲し、山下なる筒江に陶土を発見して、製作を試みる傍ら孫の彌次兵衛を七才の折より此大智院に於いて養育せしが、寛永二十年(1643年)八十八才に卒去して彌次兵衛は三河内なる父三之亟の許へ帰ること成った。之が後の如猿である。
平戸の三皿山
寛永二十年(1643年)藩は三河内の外、木原の陶山と江永の陶山へ皿山役所の出張所を設け木原には小山田佐平、江永には某辰次郎を共擔當者たらしめしが、三河内山役所より總管し、之を平戸の三皿山した。蓋し當時白磁を焼きしは三河内のみにて、他の二山は従来の黒手物であつた。而して慶安三年(1650年)には、平戸島中野にある窯の大部分を、三河内へ移博せしめたのである。
三之の子彌次兵衛正名は、父祖に勝る名陶家であり、藩主も大いに囑望した。萬治元年(1658年)彼は、丸山の東南凡五丁を隔てし潜石の地に別宅を建て陶法の研究に努力したのである。
幕府へ平戸焼を進献す
寛文二年(1662年)には、幕府へ進献の器を製するに至りしより、三河内焼の名弘く識らるゝに及び、各藩よりの注文に増加し、此地の製陶頗る盛況を呈せしといはれてゐる。
寛文四年(1664年)藩主信は、彌次兵衛の功を賞し、御馬廻格として百石を給し、なほ梶の葉紋附(藩主の定紋)麻上下一着、時服一重及び狩野法印常信山水畫一幅、外に繪手本各種を興へたのである。
そして中里嬰女を召したるも、彼老齢(此時九十八才)の故を以て辞退せしが、其子孫代々黒物を以て藩用たるべく命ぜられたのである。
三河内御細工諸新築
寛文八年(1668年)藩は、更に三河内にて四反歩の地を選み、新たに藩の御細工所及御代官役所、御番宅等五棟を新築して、陶業一切のことを管理せしめ、斯くて正名が 棟梁の下に、二十餘人の選抜工人を召して、各二人扶持の外に出勤扶持を給せられた。そして御番宅には、槍一筋、鐵砲二挺、袖搦二丁、鳶口二丁を備へ付け、仲田傳兵衛其の番役たりしが、次に金氏太右工門が命ぜられたのである。
高麗媼卒す
寛文十二年(1672年)高麗媼中里嬰女は、百六才の高齢を以て卒去した。今三河内全山を俯瞰する天神社の丘阜に於て、高さ五尺、巾三尺程の石碑を建立し、釜山神社さして祀られてある。中里家の略系左の如くである。
三河内の中里略系
中里娶女 椎の峰中里茂兵衛ノ妻
茂右工門 二代
茂右工門 三代
千右工門 中里分家
藤七兵衛 横石氏 木原ニ住ス
五兵衛 里見氏
甚右工門 古川氏
茂右工門 四代
茂右工門 五代
茂右エ門 六代
藤五郎 七代
藤七郎 八代
繁太郎 九代
徳壽 十代
三之亟卒去す
元祿九年七月九日(1696年)今村三之亟正一六十七才を以て卒去した。豫て出藍の評ある、三代彌次兵衛正名(後正景と改む)は彌々研鑽に努め、藩主信又其向上を獎勵すると共に、これは山鹿素行(甚五右エ門高祜、始義以又高興、字は子敬、貞享二年(1685年)九月廿六日卒す六十四才、正四位)に師事して只管藩學を盛んにし、治績大いに繋がるに至った。 (素行の男藤助高基、素行の舍弟馬義信共に平戸藩に仕官す)
如猿の號を授かる
元祿十二年(1699年)藩主信は、その謹製せるところの三河内焼を禁裡に奉献し、之よ御用命を拝するに至った。同十五年正名或時藩主に調するや、信は彼に如猿の號を授けたのである。蓋し正名の容貌が、甚だ猿に彷彿たりしによれりといはれてゐる。
天草石の使用發見
正徳二年(1712年)木原山の擔當者横石藤七兵衛(中里茂右工門の三男)は、肥後國天草島の下津深江より、早岐の問屋へ砥石として送荷しつゝある石を購ひ、甞て陶器の化粧料に使用し居りしが、或時磁器の原料として試みしに、無双の良石なることを発見した。
之より有田を除く肥前の各山をはじめ、全国的に磁器の主料として該石を使用するに至りしものにて、これ實に有田泉山の磁石を發見せしより百〇七年後のことであつた。
天草石の産地
天草磁石は、石英粗面岩の分解せしものに、此地下島の北西部なる高濱、小田床、下津深江、都呂々の四ヶ村に亘る海濱地域に多く産出し、其他東南部の諸處にも發見されゐるも、現在の採掘地は前記の四ヶ處である。元祿年高濱村なる上田家三代の祖傳右工門が、同村鷹の巣に於いて始て之を發見し、砥石や硯なごの原料に切りて販賣しつゝあるうちに、前記の如く天然の單味磁器料として見出されたのである。
天草石の耐火度(焼成器にあらず)は、品質に依って異なるものあるが、まづゼーゲル錐の十七番乃至二十九番(攝氏千四百八十度より千六百五十度)を上下してゐる、該石は又水簸に依って珪酸分が減少するものにて、其水物の化學成分につき、工學博士北村彌一郎の調査せる分析表を例示すれば左の如し。
天草石の分析表
第一類分析表
珪酸 78.94
礬土 14.07
酸化鐵 0.44
石灰 0.18
苦土 0.17
加里 3.12
曹達 0.62
灼熟减量 2.59
第二類分析表
珪酸 79.34
礬土 13.82
酸化鐵 0.54
石灰 0.68
苦土 0.23
加里 3.63
曹達 0.51
灼熟减量 2.24
第三類分折表
珪酸 81.43
礬土 12.23
酸化鐵 0.98
石灰 0.39
苦土 0.22
加里 0.98
曹達 1.35
灼熟减量 2.62
第四類分析表
珪酸 75.22
礬土 15.46
酸化鐵 0.59
石灰 0.22
苦土 痕跡
加里 3.27
曹達 2.19
灼熟减量 3.39
第五類分析表
珪酸 76.46
礬土 15.90
酸化鐵 0.48
石灰 0.18
苦土 0.22
加里 2.79
曹達 1.48
灼熟减量 1.74
天草焼
而して原産地に於いて其磁器の原料石なる事を知りしは、上田家六代傳兵衛が、江戸の本草家平賀鳩溪(高松の人、源內國倫、字は士彝別號風來山人、福内鬼外、安永八年十二月十八日卒(1779年)、五十一才、贈從五位)より教はりしものにて、寶曆十二年八月(1762年)肥前より山路幸右エ門を招きて製法を習ひ、高濱村の庄屋傳五右工門始めて磁器を製作した。
明和八年五月(1771年)前記の平賀鳩溪は、天草焼の製器甚拙なりし、自ら下津深江に来つて改良の製礎を起すべく、時の天草代官楫斐十太夫に、陶器工夫書なる願書を差出した。共文左の如くである。
平賀源内の工夫書
一陶器土
右之土天下無双の上品に御座候今利(伊萬里のこと)焼唐津焼平戸焼等皆々此土を取越候其内今利唐津は日本國中砦く行渡り唐人阿蘭陀人も相調候由平戸焼は御献上に相成候故御領主より厳重被仰付自由に賣買相成不申買仕候はゞ阿蘭陀人も大いに望可申由に御座候
一天草にても近年高濱村庄屋傳五右エ門と申者焼覺候得共細工人不宜候故器物下品に御座候私存付候は天草か長崎にて功勞ある職人を呼集器物の恰好繪の模様等差圖仕唐阿蘭陀の物好に合候様に工夫仕候て段々職人共を仕込候はゞ元来土は無類之上品に御座候得ば随分上焼物出來可仕奉存候焼物の儀荒方鍛練仕罷在候其上先年讚岐に而私取立候職人共之內器用なる者共御座候得ば右體の者共呼寄外國より相渡り候陶器手本に仕り工夫を加へ候はゞ随分宜焼物出來可仕候平戸焼など随分奇麗には御座候へ共未だ俗を離れ不申候今利唐津は勿論之儀に御座候今少し事に而風雅に相成候得共片田舎の職人共故古より致來り候を漸時覺候迄に而新に工夫所へは不參譬唐物阿蘭陀物を傍に置寫候而も心に風流無御座候故自然と下品に相成候畢竟天草之焼物土は南京焼阿蘭陀之土よりも抜群宜御座候得共形不風流に御座候故日本人は外國物を重寳仕高價を出候若日本之陶器外國に勝れ候得ば自然と日本物に而事足り候尤近きを賤み遠きを尊び候は常之人情に御座候得共既に刀脇差又は蒔繪物之類日本が萬国に勝れ宜御座候故日本物にて事濟候陶器も日本製宜さへ御座候得ば自然と我国之物を重寳仕外国陶器に金銀を費し不申却而唐人阿蘭陀人共も調歸候様に相成候得ば永代の御國益に御座候元來土に而御座候故いか程遣はし候而も跡の減候氣遣も無御座候ケ様之事は甚廻り遠き様なる事故表立押而而は難申上御座候得共成就仕候得ば内々に而天草へ參様子次第に而心覺之職人共呼寄少々宛も製し出度奉存候以上
明和八年辛卯五月 平賀源内印
鳩溪が此抱負に對し、之を許可せざりし代官の小量慣れむ可く、海に惜しきことであつた。今製陶原料として全國に供給せらるゝもの、年産量五千萬斤と稱させられ、上田松彦は高濱、小田床及下津深江を採掘し、木山道彦は都呂々を採掘してゐる。そして高濱の如きは、原料地より海岸までレールに依って搬出されてゐるのである。
天草石の磨き
天草原料中最上等石は、産地にて粉砕され、之を叭詰として輸送しつゝある。又此上等とても採掘せし當時には、表面に赤色の酸化鐵皮を被りてゐる故に、斧もて其着色部丈を削り去りしものを、磨きと称して多くの手數を要せし別拵物である。而して普通石は、其儘粉砕するを以て全く黄色の粘土となるも、それが焼成さるれば帯青白色の磁器となるのである。
三河内磁器完成
斯くて今村如猿は、此天草石へ三つ岳の網代土を調合することの研究を完成し茲に三河内焼をして純白天下に冠たる磁器たらしめたのである。此網代土採掘に就いて後年所有權の争議を生せしが、明治十三年(1880年)四月時の長崎内海忠勝(後の内務大臣)の行政處分に依つて解決したのである。
如猿卒去す
享保二年三月九日(1717年)如猿今村正景八十三才にして卒去した。彼れ窯技の外彫技に於いても優秀なる手碗を有し、現今今村豊壽が秘蔵せる、高さ五寸五分の太白観音像の如きは名作と稱せらる、蓋し之は未だ網代主用時代の製品ならざるやを思はしむ。今村家の略系左の如くである。
今村略系
今村彌次兵衛 韓人巨關 初代 寛永二十年卒八十八歲
正一 三之丞 二代 元祿九年七月九日卒八十七歳
正景 彌次兵衛始正名三代如猿ト號ス 享保二年三月九日卒八十三歲
好貞 彌次兵衛 四代 享保元年六月二十二日卒五十二歲
正幸 彌次兵衛 五代 元女元年六月三日卒五十歲
正芳 彌次兵衛 六代 享和三年九月三日卒七十三歳
正和 楚八 七代 天和九年十一月卒八十八歲
正文 槌太郎 八代 文久元年六月七日卒五十七歲
正義 楚八 九代 明治十二年四月二十四日卒四十五歳
正方 甚三郎 十代 明治二十三年七月十四日卒五十七歳
十代正方の一女タニに、婿養子せしもの現代の廣一正勝にて、彼は専ら海運問屋を営業し、今村宗家の陶業は十代にして廢絶したものである。
松唐子繪
三河内藩窯の製品模様なる、松唐子繪については、當時他の民窯に於いて應用するこ禁せられ、専ら藩主の自用又は献納贈進の器に畫かれたものであつた。就中七人唐子繪を最上し、次が五人唐子繪、次に三人唐子繪と等別せしは、茶器などの應用であらう。又籠目の如き緻密な透彫の技巧があり。或は盛上及び青磁の如き又は螢手に彩色極めて精巧なる物も此處の名品であつた。
リンボウ
三河内焼には、又染附の輪廓模様にリンボウとする一種があり、それは高麗の高の字を篆書風に便化されしものである。又此處の製品は、有田よりも稍低火度にて焼成さるを以て硬度は少し劣れるも、其純白さに於いては天下無双にて、加ふるに有田物の如く微窪の生することなく、多くの生地面を現はすを以て、模様に於いても頗る瀟洒であり、従つて赤物よりは、染附の方が得意とされてゐる。
三河内青花の色
而して上繪附の際、蚯蚓嵌の發生する缺点も、今は殆んど改良されたのである。蓋し本窯焼成後異彩料の發色が、有田焼と比較して稻損色あるは、其地質の相違に起因するものか、故に有田焼に、拾五圓程度の呉洲を使用せしと、同等の發色を望まんには、三河内燒にては二拾圓程度の呉洲を使用せざれば、不可能であるといはれてゐる。
三河内焼製法の特技
三河内燒の製技中には、窯出しせる素焼物を、冷却後白布にて空拭を行ひそして附着せる微粉を除くと共に、地肌を滑らかにする技法があり。又生杯の製品に吳洲汁を吸収せしめて、焼成後疽染痕を見せざる技法等がある是等は天草と網代との調土に於いて而已なし得る製技なるか、有田の原料にては不可能であらう。
三河内に於いては、如此精巧なる白磁を製造せるも、木原及江永の二山は未だ舊來の陶器のみを製作し、正徳以後天草石を使用せしも、藩は三河内の外網代の使用を許さなかつたのである。而して又網代の一等土は天草の上石よりも高價であつた。(明治四十三年頃相場天草上等千斤入園に對し網代上等千斤拾であつた)
天草と網代調合割合
而して此調合割合は、上手物には天草四分に網代一分、中手物には天草三分に網代一分、中下物には天草二分に網代一分、下手物には天草と網代と五分宛の割合であつた。蓋し双方とも、何れも其等別の種類を調合せしこは勿論である。而して此白磁製作の創始より、何處の山々も、悉く之に改めし見るは早計にて縦一部の轉業者ありとしても、舊來の陶器製造は、矢張継続されつゝありしは勿論である。然るに磁器の安價製作が日用品として行はるに及んで、従来の黒物は之に壓倒され、途に悉く磁器へ轉業せしものと見る可きであらう。
三河内焼の一子相傳
寛永より寛曆年間に涉り諸國諸山より、或は六部や商人などに変装して、三河内へ入込み、磁器の製法を探知せんとするの徒頻りなるより、當山は一層秘密を厳守すべしとの藩命下り、窯焼は長男の外、決して其製法を傅授すべからざることゝ成った。尤も三河内焼特技の染附が、完美的頂点に達せしは、今より百四十除年前の寛政年間(1789-1801年)よりといはれてゐる。
三河内藩窯品の取締
藩用の製品中不完全の品は、販賣は勿論私に使用するさへ許されず、凡べて悉く破砕して、土中に埋没されたのである。それは多くの不合格皿を拾數枚積重ねて、上より一撃を加へたものであつた。蓋し當時は斬罪の仕置でさへ、太刀取役の手心次第にて一命を助かりし咄さへある。故に下重ねの幾枚かは命拾ひして御目こぼしとなり、よく土葬を免かれては御役人の勝手口から、長持などに藏れたのがありしかも計られない。
大柳山の伐木騒ぎ
享保十年十月九日(1725年)大村領の者三四百人、平戸領なる下波佐見堺の大柳山に来りて、製陶燃料を伐木するを以て、頻りに之を制すれども立ち去らず、依つて平戸領よりも、亦大勢大村領地の山林を伐木せしに翌十日は彼又大勢にて押寄せ來るより、平戸方よりも亦四百人を繰出して之を制し、漸く双方とも引取ったことがある。
今村履歴書
享保十八年取調の今村履歴書に左の如きものがある。
三之亟伜三代目
今村彌次兵衛(後に如猿と改名)
右焼物細工色々燒立御上へ差上候御用に相成爲御褒美則別帳之通格祿等被仰付其後品々御繪圖被仰付出來仕指上江戸にも被召連候由
切米拾石御馬廻格米拾俵御合力
四代目 今村彌兵衛(此者如猿より先に死去)
一御施行拾石貳人扶持上釜壹間外に新田知行二拾石(之は如代に土地御免被遊貞享三年に如猿代に聞知行と相成)
五代目 同彌次兵衛
一御宛行右に同(是は三ヶ皿山代官役兼被仰付)
右新田知行貳拾石之定三代目の弟伊助へ四石四代目之方次郎兵衛右庄次郎右同幾右工門右同彌次右工門之三石宛〆拾六石配分残る四石彌次兵衙知行に相成今に子孫持傳
享保十八年癸丑八月四日取調
六代目 今村彌次兵衛正芳
サンハウケ
寛政三年六月二十六日(1791年)今村彌次兵衛正芳より、藩主壹岐守清(二十八代)へ皿山沿革に闘する書き物を呈供せしが其文書の中に左の如き記事がある。
中略 焼物釜の神をニムネ明神と唱へて山神を祭る寛文十二年此頃は高麗より來りし老女(中里娶女)一人残り居て女として年々祭事を行ひたりしが老女後に曰く我死せば此宮に火を掛く可し煙天に登り朝鮮の方に立行かば此祭を止め新に山神の宮を建て祭るべし若し煙登らず地につきて消えなば永く此宮を祭るべしとなり後年老女死後火を掛けたるも煙登らずして消えしかば不思議なりとて永祭りとす享保の頃釜上覆ひ大火に及び宮左右の大松焼け失せたるにより後災を恐れて今の山に遷宮す今の宮山をサンハウケするは高麗語なるべしニムネ明神は高麗の焼物釜の神なり山の神を祭るといふ云々
田中尚俊
寛政年間(1789-1801年)田中與兵衛向俊は、藩用器の染附に、先きに記述せし彼の松唐子繪を創案した。尚俊は、藩の御用畫師法橋尚景の舎弟にて、山内長兵衛豊英の衣鉢を継ぎし者である。
一子相傳の法規を解く
前に定められたる一子相傳の法規は、後年に至り、徒らに次男以下の遊食者を生するの弊ありとなし、享和年間里見要左工門の三皿山支配役の時に於いて、藩主へ解禁の願書を出することゝなり、其許可を得て、茲に次男以下の支族にも、其製法を傳授せしめ得るこになったのである。
津金胤臣
文化四年(1807年)尾張の加藤民吉が、瀬戸に於いて磁器を完成せし逸事は、三河内陶史に特記すべき關係あるを以て、其顛末を抄録せんに、茲に尾張國熱田新田の開墾奉行にて、津金左工門胤臣といへる博識卓見の士があつた。寛政十二年(1800年)新田の開墾地を巡視中、鍬遣ひ頗る拙なる一團の人夫あるに、素性を問へば、元瀬戸の陶家の者なる由答へしにより其中にて重立てる加藤吉左工門を呼んで仔細を糺したのである。
瀬戸の陶家制度
是より先延實年間(1673-1681年)、尾張藩主徳川光友は、瀬戸焼の原料祖母の土を、藩の御用窯の外一切使用を禁じ、又陶家には一戸に陶鈞一挺の制限を命じたるを以て、戸主にあらざる其他の一家は、何れも鋤鍬を執って、百姓或は土方人足となる者多く、吉左工門も次男民吉の爲に就業の道を計るといふのであつた。
胤臣は豫て支那傳來の原書に依り、南京石焼の口傅を考へてゐたる折から、翌年吉左工門父子を瀬戸に遣はし彼の宗家なる庄屋加藤唐左エ門高景と協力して、白磁製作の研究に没頭せしめたのである。唐左工門も亦嘗て肥前大川内山の副島勇七が、藩窯を逃亡しりし際に、加藤久米八重裕、同忠次景信等に磁器製法を傳へし當時より、同じ希望を抱懐せしも、要するに之に資すべき原料を得なかった。
瀬戸の磁器試焼
之より彼等は胤臣か原書に基づき、知多郡缺村の原料を吟味して、刻苦奮勵數十回の試焼の末、漸く似寄りの酒盃四五個を焼成して胤臣に示したのである。胤臣大いに喜び、彌々熱田新田の古堤に築窯せんとするに當り、斯くては瀬戸の本業(従来の陶器)に大影響すべき異論起り此間に立ちて當惑せしは唐左工門であつた。
新製の制度を作る
従来の陶家が、此事業を瀬戸の死活問題となすや、代官水野權又之に同意し、制度を楯にして大いに反對したのである。
唐左工門は此間に斡旋し、藩老速水甲斐守の裁断を仰ぐに至り、結局此事業を瀬戸にて営業す可く請願するに及んで、胤臣も赤之を諾し、舊来の制へ更に新工夫を加へて、今度の事業を新製と稱し、乃ち次男以下の営業と定めたのである。
瀬戸の本焼失敗
斯くて享和二年十一月(1802年)瀬戸に於いて、初火入をなせしところ、結果は甚だ不完全であつた。そして翌十二月十九日胤臣は七十五才を以て卒去したのである。(昭和三年十一月十一日正五位を贈られた)之より彌々有田行の人選となり、吉左門の子民吉が、挺身肥前へ下り藩制の警戒厳しき線内に潜入して、必ず其秘法を習得して踊るべきことを誓ひ、同四年二月廿二日(1804年)瀬戸を出立せしが、彼の行動は頗る用意周到であつた。
民吉の高濱入り
民吉は最初肥後國天草島なる高濱に上陸し、東向寺の住職天中を便りて、白磁原料の磯山を視察した。蓋し天中は元尾張國愛知群菱野村の生れなるを以て、情を明かして之を頼みしかば、天中諾して此地の陶家上田原作の手傳に周旋した。民吉は勤勞大いに努むること半歳に及びしも、磁器の施釉法のみは秘して洩さなかつたのである。
民吉の三河内入り
或日民吉は、長崎の諏訪祭を見たして詐りて此地を去り、天中の添書を携へて、平戸領佐世保村の西方寺(今の市内八幡町)に投しは、文化二年(1805年)であつた。西方寺之を折尾瀬村の薬王寺に託して三河内の窯焼今村幾右工門(今村傍系)方の職人として住込ませたのである。然るに或時人別調ありて他國人を一切此地に滞在せしむ可からずの布告に會ひ民吉は去つて王寺の寺男さなつたのである。
民吉の江永入り
其内彼は江永山の女を娶り、稍郷土人との交誼を結ぶに至り、同年此地の窯焼久右衛門方に住込みしも、當時の江永は未だ網代の使用を許されず、三河内の白磁とは、大分距離ある作風に失望し、再び三河内へ入る可く機会を窺ふうち、本場の有田は此處より一里程の道程なるを以て、彼は傅手を得て有田へ潜入した。
民吉の有田入り
彼は泉山の築窯師堤惣左工門の宅に寄偶したのである。そして親しく丸窯の構造其還元の焚き方等を見學中、怪まるゝこと有りて、急ぎ藥王寺に帰ったのである。
民吉の佐々入り
然るに此處にても亦身邊の危険を感することゝ成り、妻女の親の注意に依り同年十二月二十八日妻と共に出奔して、佐々村(北松浦郡)市の瀬鴨川の窯焼福本仁左工門方に身を寄せたのである。仁左工門は民吉の精を愛し、胸襟を開きて之に釉薬其他の製法を精しく傳授せしより、今は全く其目的を達したるを以て、彼は妻女に意を含めて、文化四年(1807年)正月七日此地を出發した。
歸途の天草行
歸途長崎より再び天草に上陸し東向寺を訪ね、又上田方に立寄りて、先きに詐はり去りし罪を謝し、且己れの素姓を明かせしかば、原作大いに之を諒とし、自家秘傳の赤繪附法を傳授せしといはれてゐる。之より民吉は肥後國八代の高田窯なる、柳本勝右工門の工場を一覧して、同年六月十八日瀬戸に儲着したのである。
藥王寺追放
此出奔後民吉を匿ひし罪に依り薬王寺第十三世の住職雄山泰賢は、國法に従ひ傘一本を持つて追放に處せられたのである。民吉製磁の法を得て歸鄉するや、瀬戸は勿論熱田奉行津金元七胤貞(胤臣の男)の喜び察すべきであつた。
之より従来の本業は、新製の為に歴倒されて、磁器の全盛を極め今や、愛知、岐阜兩縣雨の製産額は全額の七〇%近くを占むるに至ったのである。此功に依って加藤唐左工門高景と、同吉左工門景遠は共に三人扶持を給せられたのである。
民吉贈位
加藤民吉保堅は、文化七年(1810年)七月四日五十三才にて卒去し、昭和三年十一月十一日には従五位を贈られたのである。斯業の門下には壊仙堂川本治兵衛や、加藤新七の如きがあり、後年には山居川本半助や、陶玉園加藤五助の如き名陶家が輩出するに至った。
其後美濃の市の倉へも亦、三河内の工人往きて今日の酒盃専門の盛業を起すに貢献し、會津焼の如きも、一時此三河内風の染附を摸擬して、頗る盛價を揚げしさいはれてゐる。
三河内の和蘭貿易
文政十三年天保元年(1831年)と改まり、間もなく一朱銀不通となりしより、引替の爲め長崎に赴きたる三河内の中里利助と古川類藏は始めて和蘭人に三河焼賣込の約束を締結した。之より類藏の兄正作(中里家より岐し甚右工門の後裔である)及び大野慶助、大野甚藏等は蘭人の嗜好にすべく改作し、そして平戸焼の海外貿易先行したのである。
此時蘭人が珈琲器を要することを知り、今村槌太郎正文(巨關より八代)は藩主松浦熙(二十九代)に上申して盛んに該器を製作した。
平戸焼物産會所
藩主は又長崎に平戸物産會所を設けて貿易を開始すること成った。そして此薄手珈琲器製作の創始者は、池田安次郎、高橋平助 中里丑太郎、古川正作等といはれてゐる。
甲子夜話の一節
天保五年(1835年)藩主松浦熙が前藩主淸に物語りし甲子夜話第三篇十一巻を抜粋するに左の如きものがある。
(後年清の執筆)
中略 予安永八年(1779年)に在國の間平戸を出て領邑の巡見して早岐に至りかの山里に往きこの今村氏宅に憩山家なれも其居も見苦しからず座舗も手廣なるに軒下は切目線にして向ふは自然の芝生を築山の如くとりなし樹木も其奥に竪繞れり芝山の中ほどに小祠あり共前に小き鳥居を竪つ之に額を掛けたり書して曰く熊川明神と予左右をして問ふ是れ如何なる神ぞ答ふ某が氏神なり又問ふ氏神とは何神答ふ某は元高麗の人法印(十七代鎮信)彼地御歸陣の時御供にて此地に来る因て即ち高麗の神を招して此宅の鎮主とす且つ氏神なり予特に思へらく熊川とは高麗の地名熊川ならんと思ひ氏神と云ふも宜なぞ又小祠のあたりを視るに梅の古木の枝を交へ横たはりたるに瓢箪に紐を付て下げたるあり予之を問ふに山雀來りて之に宿るをこれら等珍しき事を思ひたるに近頃肥州の物語りにかねて咄給ひし三河内の今村が宅十八熊川の祠を去々年か尋ねて候へば彼の祠も今は亡く額はもとより無き答へし肥州捜索もありしが彼邊の田今里長の輩も皆知らすとて止みぬとかや固より虚談を云ふ可きにあらず然るを今斯の如きは實に歎くべきならずや顧みるに安永より既に五十六年桑田のも變も信に誣ならずや尚昔を懐はゞ後の圖に據て求むべし又今村が祖を尋ぬるに朝鮮熊川人巨關と稱せしと然るときは熊川正しく今村氏が生國嘗て氏神と云也余が巡麗の頃は彌次兵衛と云ひしが其子楚八(七代)其子槌太郎(八代)とて今は彌次が孫なりと聞く浮雲流水世の有様悲に堪たり接ずるに懲此祿に熊川郡は慶尚道の東海の地釜山浦と遠からす信に法印公の昔想ひはかるべし云々
池田安次郎
豫て和蘭人向の珈琲器につき、研究しつゝある池田安郎は、天保八年(1838年)に至り純白なる地質にして、紙の如き薄手物を製作することに成功したのである。
如猿を祀る
天保十三年(1843年)三月九日付を以て、藩主松浦煕は、左の書並に和歌二首を三皿山に興へたのである。
覺
其祖如猿昔年之余慶なる恩澤に浴する三皿山居住氏子と孫々に至る迄敢て之を忘るゝなかれ因て自今陶器滿足祈願所として如猿大明神と崇祭可致事
天保十三年壬寅三月九日 源熈
茲に於いて三河内山の東方潜石山林二百尺の高地をトし、祠を建て如猿大明神と崇むることゝなつたのである。
和歌二首
ひたふるに山さかへよどわかわさを二三九つくしていれつちまほる神
わけいりてたれもみよかし鬼神も
あはれとおもふことのはの道
三河内燒をして、網代と天草の調節に依り、今日の白磁に完成せしめしは、如猿の功績に帰す可きも、蓋し此今村父子と協力して、三河内陶業の繁榮に努力せし高麗媼の功績亦少くない、彼の椎の峯崩れの工人等も、皆此媼を便って此地に流れ來しといはれてゐる。そして後年の大川内藩窯崩れが、又三河内焼の進展に興かりしことも、見遁されぬ事柄であらう。
天保十四年(1844年)針尾島大崎の石を以て彌々如猿大明神の神祠を建設し三月九日(如猿の忌日)を以て毎年の例祭日と定め、爾來藩主より下されし覚書及短冊の歌二首を誦み上ぐることを例とするに至つた。そして此頃藩は御手當米と稱して米一千俵を三河内皿山庄屋に備へる事と成ったのである。
木原江永へ網代の使用を赦す
弘化三年(1847年)木原山の石丸彌一右工門、樋口頃一等は江永山の有志と計り、代官川淵莊兵衛へ出願して、網代土の使用を許可さるゝことゝなつた。それには品種の差別を設け、上太白は三河内藩窯の外之を使用することを禁じ、次の上白以下を三河内の民窯に許し、下白の分を木原と江永の使用に許されたのである。蓋し維新後は、勿論此制度は消滅して、現時普通物食器の如きは、三山何れも判別し難きに至つたのである。
當時は三河内藩窯に使用さる、御用工八十八名窯燒手傳五十一名、赤繪屋六名にて、三河内山の戸數三百餘、それに木原山江永山を合して、三陶山の戸數五百除させられた。
三ツ岳番所
此頃三つ岳の網代土を採掘し、夜中船積して密かに他領の陶山へ販賣する者あるを見せしより、藩主松浦詮(三十一代)に上申して、此地方に番所を置くことに定め、斯くて安政三年十一月(1857年)御番宅建築係田中記太夫窯焼本服冶工門とが協力して、三つ岳番所が竣工した。之より採掘せし網代は、一旦早岐港津元に運搬して番所の倉庫に入れ、田中記太夫之を監督すること成った。
安政より萬延年間(1855-1861年)に涉り、時の代官白川常次郎は、只管風俗の矯正に努め、そして當山の發展に盡瘁せし一人であつた。元治元年(1864年)十月中里庄之助は、皿山代官を拝命した。翌慶應元年(1865-1868年)には稲本太郎が、平戸焼物産會所の業務を擔當した。
三河内赤繪の二度焼
此年金氏太三郎、今村常作、森利喜松等の工夫に依って、赤繪の二度附をを創始した。
朝廷へ平戸焼献上
慶應元年(1865年)八月四日藩主松浦詮は、朝廷へ年々奉献の品四種の内、本年は三河内燒並びに潮煮鮑を献上の旨、同十二月二十七日幕府御用番へ届書を提出し、翌二年五月二十日届の通り奉献したのである。
慶應元年(1865年)古川又藏御用細工人に採用され、同僚高橋太郎は、五合二人扶持を給せらるゝに至つた。又馬廻り橋本太平が、三河内代官許斐衛七の跡役を命ぜられたのである。
萬寳山商舗
明治四年(1871年)王政復古となるや、藩は當時の郡古川澄二(運吉)に、平戸焼物産會社一切の業務を譲り渡すことゝなり、澄二は福本榮太郎と圖りて個人經營となし、満寶山商舗と改めた。故に當時の製品には満寶山枝榮製、又は平戸産枝榮造の銘がある。
三河内の登窯改造
明治五年(1872年)頃より、従来の三十間乃至四十間の登窯を廢し、十五問以下五六間程度に改むることゝなつた。明治六年有田の深川榮左工門より博覧會出品物として、薄手珈琲器の注文があり、之に應せし森利喜松は、該器に六歌仙畫極彩色の赤繪を施して高評を博したのである。(其子宇三郎及舎弟榮四郎、共に陶畫の名手であつた)
明治六年皿山里長(明治二年より)たりし中里庄之助は、三つ岳陶土取締役となったのである。(そして明治八年に三河内山線代となつた)
豊島政治
明治七年前記古川澄二の甥に當り、桑木場觸の豪農にて元里正の職にありし豊島政治は、家政を弟菊職に委ねて自ら三河内に来り、前記満寶山商舗を一切引受くることゝ成った。
明治十七年豊島政治は、富田熊三郎と協力して代官屋敷に商店を開き、爾來東京、横濱、神戸長崎等の貿易に従事し。同年六月中里庄之助は、興産會社を組織して其取締と成ったのである。
口石の皇室献上品
明治二十二年五月口石丈之助は、其透彫製品を皇室に献上せんことを出願し十一月十四日附を以て、時の長崎知事日下義雄の許可を得るに至りしが、翌二十三年春に及んで献納を了したのである。
三河内焼の御買上
明治二十三年 明治天皇陛下佐世保鎮守府へ御臨幸の砌、御在所陳列品中なる今村克次郎出品の太白鶏の置物壹對が、御買上の光榮に浴したのである。
福本源七
明治二十三年福本源七は、東京淺草松浦伯邸內御用焼の擔任者となった。彼は今村良作門下の捻細工人にて、従良さ號し、福本家十一代の裔孫である。そして明治二十七年まで勤務したのである。
里見政七
明治二十五年里見政七は、三河内山窯焼總代に推選され、地渡山林及江上村土場(網代)並びに早岐港原土貯藏倉庫等、一切の監督をなすことゝ成った。此歳中里與茂作(茂右工門の傍系)松浦家御用焼を命ぜられた。
此頃より豊島政治は東奔西走して、全国主要の都市に、販賣を擴張する傍ら、三河内燒の向上發展に盡瘁した。故に三山の陶家は勿論工人に至るまで、皆此獎勵に浴するに至り、漸次内外人の稱揚するところとなり、需要頓に増加して、製造の規模を擴大するに至つた。
池田直之助
明治三十年松浦詮は、平戸鶴ヶ峯の本邸に築窯するや、其製陶主任として、池田直之助選まれて勤務したのである。
陶磁器意匠傳習所
明治三十三年豊島政治は里見政七、中里利一、今村虎之助、中里巳午太等と計り、際費の補助を得て、陶磁器意匠傳習所を開設し、陶畫と製型の二實科を教科目とした。そし夏季休暇を利用して、東京より島田佳矣を、有田より徳見知敬を聘して、専ら圖案の改良を計り斯くて政治が所長となり、里見政七及古川又造が副所長であつた。其他中里巳午太、今村豊壽は畫風を敷へ、細工の教師には諸隈虎太郎、古川米之亟、池田直之助等があった。
福本の羅漢製作
此年﨟本源七は、群馬縣群馬郡寛田山長命寺の五百羅漢を製作した。(後年武藏國安樂寺の二十六羅漢を、又信濃國正安寺の五百羅漢を、又東京田畑興寺の弘法大師像を製作した)
佐世保市の献上品
明治三十三年五月十日 皇太子殿下御成婚の大典に際し、佐世保市より献納の高さ一尺八寸の透彫香爐壹對の製作を囑託され今村克郎之を謹製したのである。
今村六郎
明治三十四年戶鶴峯邸に於ける、御庭焼主任として、今村六郎が勤務することゝなつた。
中里己午太
明治三十九年工業補習學校を創立し、中里巳午太之を擔當することゝなつた。
三河内焼を英國皇族へ献ず
豊島政治は三河内陶器組合を代表し、接伴員なる宮中顧問官長崎省吾の手を経て、佐世保御来臨の、英國皇族アーサ・オフ・コンノート殿下へ花瓶三個を献上した。
明治四十年合會社が設立され、豊島政治社長となった。
三河内焼の生産と販賣
明治四十二年の統計に依れば、三河内山窯焼三十九戶、職工數男三百三十五人、女百七十五人であつた。そして天草石千斤代八園、三つ岳の網代千代拾圓、燃料木千斤代四圓、本焼窯數三十九間、赤繪窯數三十間、製産高拾壹萬參千五百餘圓、種類は花瓶、香爐、床置物、机飾器、茶器 酒器、食器、菓子器等にて販路は横濱、神戸、長崎等の外國向六〇%、東京大阪等の内地向四〇%であつた。
明治四十三年巨關の墓碑及遺骨を黒髪山より當山に移し、三之亟及如猿と共に三代を、同所に奉祀したのである。
松浦邸へ皇太子殿下御成
明治四十四年六月一日 皇太子殿下、東京淺草の松浦邸に御成遊ばされ玉ふや、伯爵厚(三十二代)は深く之を光榮として、三河内焼の香爐を献上したのである。
大正六年松浦厚は、山民の請により、三皿山開窯記念の銘を撰し、同七年三月には、又開窯三百年記念碑の題を揮毫し、かくて兩記念碑は、美ごとに釜山神祠の傍に建立されたのである。
工業補習學校
大正七年工業補習校を陶磁器徒弟養成所と改称すると共に、學制に改革を加へ爾來徒弟養成の實蹟を向上するに至った。
豊島政治卒す
大正八年五月三十一日豊島政治六十九才を以て卒去した。實に明治時代の三河内窯業は、活躍せし彼氏の努力に負ふさころ少からざりしこさを特筆すべきであらう。彼は此繁忙の間にあつて、獪村會及郡會の議員として、地方自治に貢献するところあつた。
現今の徒弟養成所
其後の子弟養成所は、所長山田祐士が、積極的經營の施設に腐心して彌々其効果を繋げ、大正十二年四月より、釆女甚一を主任として教習せしむること成った。此間陶書及成形に優秀なる工人の多數を出し、以て平戸焼技術の中心機關たらしめたのである。現所長は折尾村長迎顕義にて、技術職員二名を置き、本科生十七名、別科生三十七名、研究科生十二名を収容し、上波佐見に於ける長崎縣窯業指導所と連絡を保つてゐる。
由此地創作の名手に乏しからず、明治三年今村喜八郎は磁器白蠟を創作し、同十七年藤本恒太郎は磁器碁石を創作し、同二十年には藤本熊次郎同源吉磁器義齒を創作したのである。尚此處の名工と稱すべき陶家に左の如き人々がある。
三河内の名工
今村利右工門
元治元年七月二十七日卒三河内風花鳥繪の名工である。
中里丑太郎
文久二年六月十七日卒、三十二才轆轤薄手の名工にて、其紙の如き細工は糸底に至る迄厚薄なく驚く可き技術を残してゐる。
今村幾三郎
明治七年十二月十三日卒藩窯松唐子の名工である。
今村良作
明治十年舊五月十二日卒、四十八才彫刻細工物の名工である。
古川正作
明治二十一年六月二十一日卒七十五才轆轤細工の名工にて、薄手にて筆の長軸を製作せしものである。
口石丈之助
明治三十五年二月六日卒六十九才明治十五年頃より、一意専心香爐等の透彫を研究し、同十七年頃に及んで逸品を製作せるが、其技頗る精巧を極めてゐる。
今村六郎
明治三十八年一月九日卒、七十二才前記今村利右工門の門下にて、藩主より表猿の號を興へらる、三河内風龍虎模様を善くし、彫刻の名工であつた。
三河内現代の名工
現代の名工には中里巳午太がある、彼は中里分家八代の孫庄之助の長男にて田中南門に入って陶畫を學び、會て明治四十四年松浦伯より三猿の號を授かつてゐる。今村豊壽は、如猿の次子岸九郎より分家せし長兵衛の孫にて、通稱を十代次と云ひ、藩の御用畫師片山舟水に學び、豊壽齋長之と號して繪畫専門の工人である。
池田直之助は、如猿の婿傳九郎の裔孫にて、轆轤上に於ける小間物細工は、當代並ぶ者なき名工である。口石大八は、沈之助の孫にて近太郎の男である。彼は透彫の技巧に於いて第一人者といはれてゐる。
陽山の宮内省御用達
中里陽山は、通稱助十と云ひ、窯技は勿論繪畫や彫刻に堪能なることは既に定評があり、昭和三年十月二十三日宮内省御用達を拝命したのである。
其他口石嘉五郎、今村啓一郎等流石に此處は高級品製造して名陶工が少ない。 此地好況時の頃は戸數三百を越え、年産額三十萬圓を擧げしも、其後不況の爲め百二十戸に減じ、近來又二百戸に復興せし稱せらる。現在窯燒四十戶、職工四百人、年產額十萬圓除であらう。
木原山
之より木原山の沿革を記述せんに、此の発祥は隣地吉の元(同じ折尾瀬村)より移轉せしものゝ如く、而して吉の元を述べんとせば、又佐賀藩領なる伊萬里系の原明より筆を起さゞるを得ない。尤も折尾瀬鄉人中には、平戸の中野よりりし巨闘が、最初吉の元に開窯して一面原明に分窯され、そして柳の元より木原へ展開せしの説をなす者少からざるも之は平戸領と巨關の功績念のみに捉ばれたる考察にはあらざるか。
原明と吉の元との考察
而して吉の元窯の作風が、僅に數丁を隔てし原明窯と同一なりとせば、平戸系よりも、古き南川原系の原明より分窯せしと見ることが、地理的にも安當であらう。當時既に開窯されし吉の元へ、巨關は臨時的試燒に来りしもの如く、又彼の小山田佐平の如きも、椎の峯より此處に来て製陶したのである。要するに多くの製陶者が、此吉の元一帯の山林を探伐し、而して共缺乏を見るや、漸時木原方面の奥地へ轉せしものを観るべきであらう。
木原の古文書に、左の如きものがある。
吉の元燒立候折山の神と取立二月十五日十一月十五日年二度肥前(同じ肥前國内ながら平戸や大村藩民の言ふ佐賀藩領のこと)原明彌大峯は坊石千新院兩度を祓致木原山の神を吉の元より其神引移し嘉永年迄仙境院山祭りに御出ありき云々
右の文書に依るも原明と、吉の元及び木原山とは舊來より密接なる關係ありしことが察せらる。抑原明は、今の西松浦郡曲川村の大字村落にて、戸數五十餘ある舊佐賀藩領である。此處は有田驛より一里の行程であり、そして該村の南端に長崎縣との境界標ありて、吉の元と堺を接してゐる。
原明の窯の谷
此の鐵道線路の東、二三丁を隔てし山邊なる堤の上に、窯の谷と稱するのが即ち原明窯にて、此處にビク屋敷などありしといふは、小溝窯の分系らしく(ビクのこと伊萬里系小溝窯記事参照)此窯は明治中年頃まで、小形にて四十間餘登り居しが、今は全く取崩されて、大部分開墾地成つてゐる。
此處の古窯品は、飴色釉や灰色釉及び鶯色釉なごの溝縁、丸、緑淵等の四つ目積小皿が多く、或は淡緑釉にて蛇の目積の大皿もある。又天目釉の茶碗類あるも、何れも少さき無釉高臺にて、中に鐡釉にて粗雑な文様を施せるは、全く吉の元と同作風である。又後年には麁製磁器が焼かれ、皿類が何れも蛇の目積であることは、小溝と同式である。
吉の元
吉の元の古窯品には、前記の如く飴釉薄青茶釉或は鶯茶釉等の小皿があり、又七八寸の大皿がある。何れも高臺無釉にて形頗る小さく、中に小皿の如きは、徑五分位のものさへある。又大皿の一ヶ所乃至二ヶ所が、割高臺に成つてゐるのは、底部への火廻りを迅速ならしめんとの考案に因るか。其外天目茶碗や灰色釉茶碗があり、何れも高臺無釉にて、多く目積焼である。
茶碗や水指には、高き竹の節高臺があり、それが淺き繰取の痕が、雌尻に成ったのもある。そして鐡釉にて草の如き文様を描きしものや、又大皿の擂鉢形或は小皿の溝など、全く原明窯の谷と同技巧たることが注目に價する。
吉の元の墳墓
又此處には韓人墓頗る多く、今尚七八基ある由聽きしも、密林参差して邃に探ることを得ざりしが、多く正徳年間(1711-1716年)のものとあれば、最早歸化して數代をしもの如く、又木原の古文書には吉の元より移住せし人々として池田氏二人、横石氏二人、樋口氏二人、岩永氏一人、石田氏一人、山村氏一人あり。而して此同姓にて木原大神宮碑の施主中に連名せるは、元祿九年(1696年)とあるを考ふれば、吉の元の墓主は最早熟化せる韓人であらう。
前平の韓人墓
吉の元の向ひなる前平と稱する太子堂の傍に墓地ありて、其處の樫の大樹の根元に、韓人墓と稱せらるゝ一基の碑がある。高さ四尺五寸位、巾二尺五寸位の平たき自然石にて、上に梵字が大きく刻まれ、其下に宗全及妙永と並んで夫婦らしく記されてある。而して其根幹の成長と共に押冠ぶされし碑は、四十五度位に傾斜せるまゝ、其根にしか抱込まれて、微動だもせぬやうになつてゐる。
柳の元
吉の元の西南四丁斗りを隔てし隣山が柳の元にて、此處の古窯品も弥吉の元大同小異である。中に古萩焼と見紛氷裂出淡黄釉の茶碗があり、或は黒天目の寂びたる茶壺がある。又飴釉や灰色釉にて、八寸より尺口位の縁淵皿や、揺鉢形大皿に結び鳥を鐵描せしものなどは、吉の元同様驚く可き小高臺にて、それが反飜つて幾枚も焼付いたのがある。又赤粘土へ薄く白化粧せし目積深皿や、薄綠釉糸切の小皿があり、そして後代には染附物の磁器を製し、中には辰妙なご發見されたのである。
木原山は吉の元より十丁餘を隔てし山間にて此處には地藏平、下窯、谷窯、西窯、東窯、堂の前等の古窯趾がある。
地蔵平
地藏平の古窯品には、吉の元や柳の元に見る結び鳥を捕せし大皿があり、又飴釉に同じ鐵描せし目積小皿や茅なご描ける茶碗がある。又同釉にて糸切底の徳利を目積にて焼きしもの、或は下呉洲にて文様せし底目積の七寸丼がある。又褐色胎土に白化粧を施し鐵描の小皿が、底釉蛇の目に剥ぎ取り、目砂を敷きて焼かれて居り何れも高臺無釉である。
其他鶯釉や薄墨釉、栗釉、小豆色釉等に縞刷毛目を施せし茶碗の如きは、其後進歩の作品なる可く、猶後代物には、軟質磁器に鳥羽繪の文様や、李朝風の染附などがあり、青磁は原料の關係に因るか共數稀なるも、作品には釉面に針彫又は第彫にて、花鳥模様が飾されてゐる。
木原谷窯
谷窯の古窯品には、暗紫釉に白にて縞刷毛目を施せし茶漬茶碗や、栗色釉に霙刷毛目の茶碗や、金茶釉に内外濤亂刷毛目の茶碗があり、桃色釉小氷裂出の茶碗に、呉洲筋を施せしものがある。又高無釉物には、褐色胎土へ黒茶釉を施し、それに縞刷毛目をせしものや、白化粧せし蛇の目積の皿茶碗があり、或は半磁器にて薄青釉に吳洲描せしもの等がある。
木原西窯
西窯の古窯品には、鶯釉無釉高臺の小皿があり、或は栗色釉に縞刷毛目を施せし反茶漬碗がある。又同釉にて浪刷毛目に、内霙刷毛目の茶碗があり、此處にも皿の底を蛇の目に剥ぎ取つて、目砂を敷いて焼かれたのがある。
木原東窯
東窯の古窯品には、栗色釉に波刷毛目を施し、内に霙刷毛目を文飾せし深茶碗があり又炻器の如き褐色釉茶碗の蓋に、高臺が無釉ながら兜巾に成ったのがある。或は薄鼠色の半磁器に鐵釉にて書をかきし茶碗などもある。
木原下窯
下窯の古窯品には、褐色胎土に、氷裂出淳 青地の蛇の目積小皿や、其他種々の無釉高物あるも、進歩せる製品には、暗色鶯釉丸形の茶碗に、外小形立浪刷毛目を施し、内には木の根の如き霙刷毛目を文飾せるが、細工も頗る巧みに全く現川式の出来栄えである。
又栗色釉や、小豆釉、赤茶釉等に、白の浪刷毛目があり、或は栗茶釉に、小刻みの浪刷毛目を施し、内には霙刷毛目を文飾せし茶碗がある。其他黒茶釉や小豆色釉に、小波刷毛目を施せし突立の火入があり、又鶩茶釉や小豆釉の反茶漬碗に、縞刷毛目や波刷毛目を施したのがある。
堂の前
堂の前(庵の前さもいふ)の古窯品には、無釉高臺の低き小皿に、小氷裂手の青釉や灰色釉を掛けしものがある、或は栗色地魚形の手塩皿に、筆化粧を施せし巧妙なる薄手物があり、又同じ魚形の香合や、同手の長角形に、象嵌模様ある香合など、何れも炻器質に焼かれてゐる。其外に禱亂刷毛目を施せし五寸井等がある。
又鼠色釉平形碗の巧妙な細工に、波刷毛目及梅白紋を象嵌し、内に霙刷毛目を現はせしものや栗茶釉の反形碗の内外に、霙刷毛目を施し、其腰部丈け細かに、波毛目を文せしものがある。或は同釉にて小波刷毛目や、立浪刷毛目の巧妙な茶碗もある。
又高さ七寸の樽形の水指に、緑は霙刷毛目を施し胴の雨面に雲刷毛目を文し、そして呉洲にて達筆なる蘭を描き、なほ柄には群青釉を流せしものがあり。又黒栗釉に蓮華刷毛目を施し、或は茶色釉に、呉洲にて蘭花を散文し、又は藤の花や鷺を白にて象嵌せし分銅形切綠六寸の向附皿などは、全く現川風である。其他薄鼠色磁器時代の物には蛇の目積せる粗製の小皿などもある。
此外木原の古窯品には、鼠色釉に呉洲山水を描きし深茶碗や、又天目釉に白釉にて葉蘭の繪刷毛目を交せし三寸の火入や、栗色釉に白の獨樂筋刷毛目を施せる、四つ目積の四寸丼があり。或は黒褐色釉に、白にて根〆刷毛目を施せし、三寸五分の突立形火入などがある。
木原の磁器
斯の如き巧妙なる木原の刷毛目も時代の流れには逆行し難く、途には黒物の緞帳を引下ろして白磁の新幕に掛替へるの止むを得なかつた。最初は何れの窯も、皆薄鼠色の軟質磁器を焼いてゐるが、それは多く厚手の深形碗にて下吳洲にて粗き縁書をなし、下に殺風景な山水を書きなぐつてゐる。共後網代の使用を許さるゝに至り、一面天草原料の應用と共に、色相全く改良されしと見るべきであらう。
小山田と横石
木原焼は申すまでもなく、陶器さして特に刷毛目に於いて特種の技能を有し、松浦藩主の用品の如きも、此地の擔當者小山田佐平同横石藤七兵衛が命せられたのである。殊に横石家は代々其製作者なりしを以て、磁器としての發展は頗る後代に属してゐる。而して此地一般陶家磁器へ轉換せし時代より、特に西窯の如きは、二十七間の登りにて盛んに製造せしものにて、彼の三寸五分の茶碗に呉洲にて大阪新町お笹紅と記せる深形紅碗など、當時大いに製作されたのである。黒物より磁器へ轉換せし、時代を記せる此處の古文書に、其頃の事を書留めたのがある。
盃一ツ六八色にて百二十文致し段々焼立花瓶、丼、火入其他繪藥は唐人持來り灰は地灰使ひ候得共白物と成りてより日向國より檮の皮灰を相用ひたる也
又當時に於いては、白磁の質は玉の如く貴く、木原にて里見の廣東、(深形の廣東茶漬碗)池田の九菊(粗雑な菊花詰猫の煎茶碗)横藤の盃と稱せられ、大阪筋にて争うて買取られし由にて、横藤の盃を行李一杯携帯して上阪すれば、歸途は膽きも切れぬ莫大な金に代はりしといはれた位である。蓋し此盃は巧妙なる薄手物にて、坏土削り上げの際、一個二匁四分(9g)を越えざる様、一々秤り試せしといはれている。
木原茶出し
而して磁器に轉換されし木原窯も火口アンコ丈は永年陶器を焼きものゝ如く、それは多く青藥を掛けし土瓶であり、之が俗にいふ木原茶出しである。明治十年頃より型打染附の模樣法行はれ、茶漬茶碗や小ぶく茶碗、及菊の煎茶々碗等、重に下手物が製作されたのである。
大川内流れ
明治十七八年頃、大川内なる鍋島藩窯にありし、元御用工人等流れつてより、此地の製品大いに面目を改めしといはれてゐる。 就中當時來往せし名工加々良傳八(大川内藩窯の名工萬平の男)に就いて、轆轤の技法を鍛練せし者が今の横石臥牛である。
横石家の本系考
前記の横藤とは、彼の天草石の使用を見せし橫石藤七兵衛の後代にて、彼は又俳諧を善くし、特に松浦藩主の知遇をうけ、木原山の擔當者であつた。今地臓平の墓地にある石碑には享和二年六月十二日卒法であるが、之は孫の藤七兵衛であらう。其子藤次兵衛は文化十五年正月二十日に卒去し、そこに墓碑がある。其子嘉助といふのが、二本松淨漸寺の過去帳にある、元治元年(1864年)七月五日卒去の者であるらしい。
嘉助の長子が久九郎子が鹿吉である、久九郎の子が常太郎、邦三(湯口邦山)の兄弟にて、常太郎の子丑之助が乃ち今の臥牛である。而して嘉助は如何なる都合ありしか次男鹿吉をして宗家を継がしめてゐる、故に此内が御本陣として松浦藩主は屢此處に來泊されてゐる。そして鹿吉の子が今の門吉である。
御本陣來泊
藩主松浦凞は、或年唐津獅子ヶ城(厳木村)なる、祖先峯氏の墓参の歸途、正月の十四日橫石嘉助宅へ一泊し、翌十五日は三河内の今村槌太郎宅へ一泊せし記録がある。次には明治十四年十一月舊藩主松浦厚は、舎弟靖を同道して横石鹿吉宅へ一泊せられてゐる。其當時藩士より鹿吉へ送りし書面に左の如きものがある。
前略 若殿様御事靖様御同道にて一月六日より天氣次第地方筋御舊領御巡覧被遊候其時分木原三河内山も御立寄被遊舊御堺目御覧被成候其筋は共許宅にて 殿様御代より御立寄被成候場所に御休相成候と存候殊に寄り御一泊被遊候儀も可有之拙者も御供致申候何も指支無之は御本陣に相成候様頼入候皆々御供も有之十四五人の事に相成可申下宿も入可申御家來の仲間其他中泊無不都合致被置度候云々
明治十四年十一月二十日
安藤藤二 花押
横石鹿吉殿
尚外に一通の注意書が添へてある。
一御膳具は平常用ひ不申品焼物にてよろしく御二方樣用意可致事
召上り物とても唯御茶漬位にてよろしき事
一御夜具は木綿にて宜敷成精淨にいたして可被置事
外に御茶菓子にも有合位御酒迚も少々御肴など有之候へばよろしく候事
右心遣申入候也
大神宮施主の窯焼人名
下窯の隣地なる大神宮碑には、施主として元祿時代に於ける木原窯焼の人名が彫刻されてある、其人々は池田伊左エ門、丸田孫太夫、湯口又右工門、同又左工門、石丸彌一兵衛、同彌兵衛、同十左工門、石田彌五六、岩永傳右工門、九田平右工門、山口新兵衛、横石佐次右工門、樋口九工門等にて、元祿九年子四月十一日(1696年)と記されてある。近代の代表的窯焼としては左の二人であらう。
石丸 六郎 明治四十四年六月二十日卒五十五才
横石 鹿吉 大正十四年九月六日卒八十六才
木原の名工
往年木原山の名工として、石田伊之助があつた、彼は出雲や伊像等の陶山へ遊歴し技術を錬磨し、常に優秀なる作品を製出した。
又山田宗次郎と稱する名畫工ありしが、天保年間伊豫の砥部山に於いて卒去し、其他筑前須惠陶山の者にて松永吉藏とする轆轤の名手があつた。
横石臥牛
現代に於いては横石臥牛であらう、彼は古陶のイミテートに巧妙なる技術を有し、或は其眞偽を迷はしむるまでに摸作の名手である。
要するに木原の磁器は、未だ往年に於ける刷毛目當時の異彩を發揮せざるが如きも將來日用品の製造に依って、意匠圖案の研究に精進し、特に光輝ある製品をすべく努力すべきであらう。現代窯焼としては尾崎久之亟、本石仙一等にて今や戸數六十戸三河内驛より一里半程の山地である。
江永山
江永山は、木原山より山一つ越せし隣地にて、創業は寛永十年(1633年)木原より分窯せしといはれてゐる。
江永の古窯と西窯
此處の古窯には古窯と西窯とがあり何れも多くの古陶片が出現する。それは概して木原と大同小異にて、乃ち例の灰色釉や飴色釉等に、白の渦刷毛目や縞刷毛目を施せしものや、又巧みに櫛目を文飾せしものがある。
磁器時代となりし初期の古窯品には、染附草畫の薄鼠色の深茶碗や、同じく粗拙な岩に松竹梅を描きしもの、或は芋山水繪の丸茶碗があり、又青磯小氷裂出の中皿を、蛇の目積にせものや、同磯手にて喇叭形五寸の花立等がある。
折尾瀬の燃料缺乏
延寶時代となり此地方一帶の陶業盛況を来すと共に、各山の窯焼は薪材の購入に窮することゝなつた。殊に當時は此界隈の道路甚悪く、他村よりの燃料運搬は頗る困難であつた。木原の如きは其價格の騰貴に苦しみ、天和年間橫石長右工門、江永山に移住して工場を開始せしも、元祿の始めには、有田の小島某又移り來りて製陶を始むるに及び、此地も亦彌々燃料の缺乏を告ぐるに至った。
三山の山林拂下出願
依つて元祿五年(1692年)藩主松浦信へ、製造地附近の山林下附を出願し、三河内は臨時藩用薪木山林として、荒平、笹の谷、炭釜の谷三ヶ所十町餘歩を、そして江永山木原山は、十町步宛を下附されたのである。同十一年(1698年)には再び三河内山五十町步木原、江永、兩山にて五十町歩の地渡山林の許可を出願した。
此時三河内山の出願者は、皿山代官井手甚五兵衞、皿山頭梁今村如猿、御繪師田中與兵衛、御山方志方佐五右エ門、三河内山庄屋口石長右工門、五人頭金氏太左工門、同古川甚右工門、書記高橋善兵衛等であつた。
江永、木原も前述の如く、五年の時十町歩宛を無償にて下附されしも、尚將來の拂底に備ふるため、木原の庄屋石丸彌一兵衛は、江永の庄屋横石長右工門へ相談せしところ、長石工門次男利右工門は、幸ひ時の御山奉行立石伊左工門譜代の配下なる縁故を以て、更に江永觸なる全部の山林讓與を合せて再願したのである。
然るに伊左工門は、既に前年許可せし理由を以て三山の再出願に應じなかったのである。其後伊左工門は、偶々此地方の山林踏査に来りしかば、利右工門は機措く可からずとなし、山目附役人等と立會の時刻を見計らひ、江永山上にて酒宴を催ほして大いに一行を歡待した。
おみな酒盛
そして宴酣なる頃、此村の小町といはれしおみなが、柴刈に來合はせしを提へて、宴席に侍らしめ、途に伊左工門の許可を得るに至り、僅少の租金を納付して、三山共に其目的を達し、江永、木原をして明治十五年頃まで、全く燃料缺乏の憂なからしめたので、今にも此山上をおみな酒盛塲とて、肥沃の林地に此エピソードが残されてゐる。
三山中第一の生産額
江永の磁器は、三河内と異り日用品を主眼として製造され、好況時には戸數百餘戶、窯燒十五六戸ありしも、現在の戸数は八十許りである。而して産額に就いては、現今の不況と雖も何十五六萬圓を繋げてゐるところ、三山中第一の生産地として活氣を呈してゐる。種類は木原と同じく重に食器類にて窯焼には山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次等がある。
猫山
東彼杵郡の日宇は、元松浦常の日宇出羽守勝の領地にて、後平戸松浦氏の支配地となり現在は佐世保市内に編入されてゐる。 此處の日宇驛より東方一里許り上手にて、二十戸程の農家疎らなる山間に、猫山焼の古窯趾がある。此地元藤原と稱せしなりしより、一名藤原焼と稱せられ今猶當時の窯具など散亂せるも、殘缺としては、間々擂鉢の破片を見るのみである。
此處は前述せし如く、元和八年(1622年)平戸より來りし巨開が、東の浦にて陶土を發見し次に此猫山に來つて試焼し、直に他へ轉せしさの口碑あるも、今此窯具などの焼成されし程度を見れば、或は十年位は營業せしものゝ如く、想ふに巨關去りし後、他の韓人平戸より來つて開窯し、そして後年には甕類や擂鉢等を焼きしものであらう。なほ此處の墓地に至れば、韓人墓とて小石を積みし無縁墓五六基あるも事蹟は詳でない。
猫山の古窯品
猫山の農家を漁りて、此の古窯品平戸系 三河内窯大口水甕や、同地色に白の波刷毛目を施せし、徑尺口程の高臺附水鉢などがある。其外飴釉むら掛にて肩部に結晶を顕はせし八寸の尻太徳利あるが前記の諸陶とは技術上別種の感あるも、或は元祿年間木原の工人來つて製造せりの説に、該當せるものなるかは不明である。
佐々市之瀬
北松浦郡の佐々村は、元松浦黨の佐々右馬助存の領地にて、後代平戸松浦氏の支配地となり、佐々刑部拵の采邑であつた。そして松浦豊久の五男五郎稠が拵の繼嗣となつてゐる。此處の市の瀬と稱するところは、戸數八十戶斗りの農村にて、當時天草石を原料として、磁器及靑磁等を焼きしである。
福本新左エ門
宝暦元年(1751年)三河內の福本彌次右工門の子孫にて、次男系の、新左工門といへる者、子喜臓と共に此地吉丸(市の瀬鴨川免の總稱)に開窯して、染附物の磁器を製造した。而して此新左工門と共に、三河内より此地へ轉居せし同業者に、椎原孝兵衛、福元勝左工門、横石丈左工門、福本九兵衛の四人ありて、五間登を築窯せしも、幾許もなく郷里へ退去して、殘留せしは新左工門一家のみであつた。佐々福本家の略系左の如くである。
佐々福本略系
福本新左工門 安中 宝暦亥年吉丸皿山収立引越 天明六年九月11日卒
仁左工門 安道 始喜蔵 文化五成二月十一日役人席 被仰付 文政六年九月十四日卒
新右エ門 安布 始小助 文化五辰五月従靜山公棟(藩主松浦清)焼物御用被仰付爲御吹聽 御直書富士御畫 十七枚拜領 文化八迄焼物職止メ 文政十二年七月十四日卒四十九才
仁助 天保四年十二月卒
新右工門 安春 始忠六 石炭口銃方爲御合方銀二貫目宛頂戴 文化十二御引塲
同年十二月於御勘定塲石炭山見計役彼仰付 切米三石上下扶持小者被下置
天保七石炭堀方又切米日並出勤扶持頂戴 嘉永三成二月二日當役被仰付 門御免
嫡子一人ノ外編元ト改姓被仰付 文人三年八月四日卒四十九才
新造 安孝 始忠太郎
芳二郎 大里氏へ養子
嘉六 大曲氏へ養子
忠治郎 福元氏
林一郎 早世
新一郎 早世
邸治 通稱 大祿 明治二十二年生 現在宮崎縣東臼杵郡富高町寄留
:付勤見計場-嘉―小-譽五早世福元氏一財 六 福元氏一
民吉の向附皿
三河内編に記載せし、尾張瀬戸の加藤民吉が、此地に潜入して福本仁左工門より磁器施釉法の傅習を受け、愛に始めて彼が目的を達せし處にて、今佐々村長久家竹一郎が、民吉製の陶器を藏してゐる、それは褐色地に暗緑釉を施せる所謂織部にて、徑五寸位の子持柏葉形向附皿なるが、細工も相當に製作されてゐる。(五枚の内一枚破損)、そして其容器の蓋裏に左の由緒書が記されてある。
向附皿の箱書
此懷き柏向附は尾洲瀬戸の産民吉といふ者佐々市の瀬において焼し也妙泉寺大柱和尚の恩賜也民吉は三河内市の瀬に滞在し陶器を修練して歸國の上尾州にて燒出し世に瀬戸ものゝひろまりしば此人也
妙泉寺
此文中にある妙泉寺といへるは、佐々村宇木場さ稱する處にありし舊寺にて、此處の東光寺(曹洞禪寺)の末寺であつた。そして維新の際妙泉寺は廢宇となりしものにて、此の品は其當時民吉が世話に成りし禮物であらう。又三河内市のとあるは、三河内と市の瀬の意味に解す可きであり、陶器とあるは勿論磁器のことである。
向附製作考
次に此市の瀬鴨川は、最初は陶器を焼きしかも知れねど、當時磁器のみを製造せしなるに、如何にして陶器を製作せしかとの疑問がある、若し還元焰を酸化焰に替へて素焼窯にて上げさせば、猶他に多く此種の遺品が見出されねばならぬてふ議論が生じて来る。蓋し當時に於ける民吉の境遇より考察すれば、彼が正しく尾張者發表するが如き陶器を焼きたるや否や、又其頃の彼が心境に黒物など焼くが如き餘格ありしやも一考に價する。
故に若し然らずせば、彼が歸國後自作して、世話になりし東光寺の和尚に贈りしを、それが末寺なる妙泉寺の手に渡り、そして後年に至つて市の瀬にて製作されしものと合点せしにはあらざるか、蓋し彼地よりの贈物としても民吉が自作品として稀品なることの価値に於いては、何等の變りはない。
三河内焼に就て
偖三河内に於ける特製品中には、前述せし如く青花の外籠目の如き透彫があり造花の如き繊細なる技工がある。明治十八九年頃瀬戸の加藤源三郎が蟲籠とし、四角や六角物に龜甲及七寶繋ぎ等の透彫器を製作して盛んに輸出時代があつた。蓋し之は一時珍器としてもてはやされしのみにて、永遠的の生命はなかつた。而して之等の技巧も今や器械的應用を工夫して、非常なる低價にて製作さるゝ時代来らずとせぬ。又彼の造花技巧の如きに於いても、一部の好事者に供する、手技に過ぎないものである。
購買品には切なる需要に因るものと、単なる好奇心に因るものがあり、而して前者は永續的なるも、後者は一時的の現象として、購買の範圍も少なるを以て、従つて小量の供給に甘んずるの外ない。故に其特種の技能を大衆的なる日用品に應用し得可くんば、生産額をして大いに増大せしむるに至るは當然である。此地由來特技に富む彼の明治初年頃盛んに製作輸出せし三番叟猿の如きも、推賞すべき其一種たるを失はぬ。
而して吾人が三河内焼の特長として敬服するものに、薄手細工のテクニックがある。若し此製作技能を普通向洋食器として、供給し得るまでに低價生産し得るに至らば、其需要たるや蓋し莫大なることを疑はぬ。然も三河内焼は美濃や硬質陶器などの珈琲器と違ひ、品質遙かに上乗なるを以て、たとひ多少の値張あるもなほ需要の餘地があるらしい。そして青花の艶麗と、赤繪の絢爛さを有する技能を應用し、貿易品の如き大衆向製品を考案して、大量製産の域に進展せんことを希望に堪へないものである。