兀庵普寧 東巌慧安宛書翰 ごったんふねいとうがんえあんあてしょかん

兀庵普寧 東巌慧安宛書翰
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鶴田 純久の章 お話

重文。
文応元年(1260)に来朝し北条時頼の帰依を受けて建長寺に住したが、文永二年(1265)飄然と宋に帰った兀庵普寧が、その三年後の歳末に、日本における彼の法嗣の東巌慧安にあて近況を報じ、かつ大法挙揚の心構えを説示してよこした書翰である。
入宋した日本僧の消息や、鎌倉中期になり禅宗が京都に根をおろしつつあったことなども知られ、史料としても価値高いものである。
蠟箋に兀庵の禅風を偲ばせる鋭利強勁文字で首尾乱れずしたためらたもので、まことに見事な出来である。
兀庵普寧は臨済宗破庵派の巨匠無準師範の法嗣で、象山霊巌寺・常州南禅寺に住したが、文応元年来朝して建長寺第二世住持となった。
しかしそのやかましい性格から周囲と調和を欠いたのか滞留六年で帰国、雲黄山宝林寺・江心山龍翔寺の住持となり、至元十三年(1276)80歳で示寂した。
東巌慧安は播磨国に生まれ、年少で出家し書写山で天台宗を学んだが、宋に渡ろうとして大宰府に赴いた際、臨済僧悟空敬念に会い禅宗に転じ、38歳のとき兀庵普寧の名声を聞いて鎌倉に赴き建長寺で彼に参じ、ついにその法を嗣いだ。翌年上洛し、洛東吉田の福田庵に閑居。
兀庵は帰国の途次この福田庵にしばらく滞留し、頂相と法衣とを伝法のしるしとして東巌に付与したという。
のち京都正伝寺を開創、鎌倉寿福寺で大休正念に会い、聖海寺の開山に請ぜられ、建治三年(1277)53歳で示寂。宏覚禅師と勅諡された。
【寸法】本紙縦30.5 横58.5

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